メアリーはイングランド王ヘンリー8世と、最初の妃キャサリン・オブ・アラゴンの娘です。父母の離婚が決まったあとメアリーの王位継承権は剥奪されていたのですが、6番目の王妃キャサリンパーの後ろ盾により復活します。
カトリックへの復活を密かに心に秘めていた彼女は、女王になるとプロテストを弾圧して300人近くを殺害しました。この記事では、ブラッディメアリーの異名を持つイングランド女王をご紹介します。
- イングランド王ヘンリー8世と最初の妃の子供、メアリー1世
- 実母が離縁され一時庶子となるが、後妻(義理母)の後ろ盾で王位継承権を取り戻す
- 女王になるとプロテスタントを徹底的に弾圧、ブラッディメアリ (血まみれ女王)と呼ばれることになった
メアリーの出自
中世、イングランド女王として君臨したメアリー1世。彼女は1516年2月18日、ヘンリー8世とキャサリン王妃の子として誕生しました。早い話が、ヘンリー8世の元に無事に生まれた最初の子供です。父はテューダ朝の正統な王、母は名門スペインハプスブルク家の出身ですから、その身分は大層なものでありました。
(テューダー朝家系図)
なかなか男児に恵まれなかったヘンリー8世は、当初メアリーの王位継承も考えていました。しかしそれでも男児を欲したのは、「新しい王朝下での舵取りは女性では手に余る」と考えたためだといわれています。そこで、若く子供も産めそうな女性を求めるようになります。その一人が妻キャサリンの侍女であったアン・ブーリンでした。
庶子におとされた元王女
ヘンリー8世は1533年にキャサリン王妃と離婚すると、当時寵愛していたアン・ブーリンと結婚します。メアリーは庶子に落とされ、あろうことかアンが産んだエリザベスの侍女にされたのでした。またメアリーは父と母の離婚を頑として認めず、ヘンリー8世もアンが王妃の間は一度もメアリーに会わなかったといいます。
しかしそのアンとの間にも女児しか生まれず、その後もヘンリー8世は次々と王妃を変えることになます。結果的に異母兄弟となる3人の子女が嫡子として残りました。王妃との離婚が決まるとメアリーの王位継承権は剥奪されたのですが、6番目の王妃キャサリンパーの後ろ盾により復活します。(参考記事:キャサリンパー【ヘンリー8世の子女を育てた 優しく聡明な王妃】)
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王位をめぐる争い
ヘンリー8世が亡くなると、唯一の男児であったエドワードが即位しました。そこで若き王に政治教育を施し実権を握ったのが、野心家であるノーサンバランド公ジョン・ダドリーです。ヘンリー8世の時代から官職を歴任し、財政改革やプロテスタント政策を推進していました。しかし先天性梅毒により幼い頃から病弱だったエドワードは、先は長くないとみられていました。
死期が近いと悟ったジョン・ダドリーは、エドワード亡き後について画策。1553年にエドワード6世が崩御すると、カトリックのメアリー王女の即位を防ぐためにジェーン・グレイを女王に擁立しました。
ジェーンの擁立に怒れるメアリー
(メアリー1世の肖像画)
ジョン・ダドリーの画策によりジェーン・グレイはイングランド女王になったわけですが、メアリーにとって気持ちのよいものではありませんでした。というのも、
- 王位継承権を無視したダドリーへの怒りもありますが、
- ジェーンが担がれて女王になったのは、彼女がプロテスタントだからであり、
母キャサリンの影響で敬虔なカトリックだったメアリーは、イングランドのカトリック復古を目指していたからです。そこでメアリー軍と彼女を信仰する人々が蜂起し、ジェーン・グレイを女王に擁立した人々を捕えて処刑してしまいます。そうしてジェーンを廃位に追い込み、メアリーがイングランド女王として即位したのです。
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ブラッディ・メアリーの所以
イングランド女王となったメアリー1世は、ここぞとばかりにプロテスタントを弾圧しました。異端者たちをとらえて改宗をせまり、拒否したものたちは次々と処刑。彼女が「ブラッディー・メアリー (血まみれの女王)」と呼ばれる所以はここにあり、犠牲者は300人以上に登りました。
先に結果を申しますと、メアリーはカトリック復古を成し遂げることはできませんでした。ヘンリー8世、次のエドワード6世の治世で宗教改革が進んでいたイングランド。メアリーの治世も病によりそれほど長くなかったため、人々がカトリック復古を受け入れるには統治期間が短すぎたのではないか、ともいわれています。
跡を継いだのは異母妹エリザベス
メアリー亡き後は、エリザベスがイングランド女王として即位しました。ただメアリーとエリザベスの間には大きな確執がありました。キャサリン王妃が離婚する原因を作ったのは、アン・ブーリン。エリザベス1世には罪はなくとも、メアリーにとっては「自分から父を奪い、母を苦しめた女の子供」だったのです。
もちろんエリザベスも同じような経験をしており、いろんな思いがあったでしょうが、異母姉メアリーが退位するまでは目立たないよう大人しくしていたといいます。ただ事実として、王を寝とったアン・ブーリンもまた悲惨な最後を迎えています。(エリザベス1世を生んだ悲劇の王妃【アン・ブーリンの最後】)
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まとめ
ヘンリー8世と最初の妃の間に生まれたメアリー1世。実母キャサリンが離縁されると、一時は庶子の身分へ落とされますが、後妻(義理母)の後ろ盾で王位継承権を取り戻します。敵対勢力を排除し、女王の座につくとプロテスタントを徹底的に弾圧、300人以上の犠牲者を出し、ブラッディメアリ (血まみれ女王)と呼ばれることになったのでした。
それにしても、肖像画を見比べると、晩年のメアリーの表情は険しくなっている気がしませんか。
子供の頃から父母のゴタゴタをみて、王位継承権も奪われかける波乱板状な人生。カトリック復古に力を注ぐもうまくいかず結婚もいまいち。生き方は顔にでるといいますが、色々と苦労を重ねた結果でしょうか、多くの命を奪ったからでしょうか。またはプロテスタント派が、カトリック復古に力を注いだメアリーに恨みを持ち、あえてこのような怖い表情の絵を描いたのかもしれませんね。(女王となったエリザベスの人生についてはこちら 【悲劇の王妃の娘 エリザベス1世】生涯独身を貫いた女王の素顔にまとめております)
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