宗教改革などでゴタゴタが続いたテューダー朝。
最後の女王となったエリザベス1世の跡をついだのが、彼女の宿敵であり、魔性と呼ばれたスコットランド女王メアリースチュアートの息子が「ジェームズ」ですね。
母の血を継ぎときにプライドが高く、父に似てときに愚かなスコットランドとイングランドの王様。今日はそんなジェームズ1世の人生をおっていきたいとおもいます。
魔性の女性の子、ジェームズ・ステュアート
ジェームズ1世の、とんでも両親
元スコットランド女王メアリーと、彼女の2番目の夫ダーンリー卿の息子として誕生したジェームズ1世。それは彼がうまれてわずか8ヶ月のとき、父は母メアリーとその浮気相手により殺され、それにより国からの信頼が地に落ちた母は、その4ヶ月後に女王の名を捨てイングランドへ亡命。しかも、最終的にはいとこでイングランド女王エリザベスの暗殺を企てたとして処刑される始末…. 1年も立たないうちにジェームズは両親をともに目の前から失うことになったのでした。
わずか1歳で、スコットランド王に
(ジェームズ・ステュアートの肖像画)
とんでも両親のおかげで、生まれてすぐに両親と引き離されることとなったジェームズ。彼は両親の顔を知らぬままに育ち、わずか1歳でスコットランド王ジェームズ6世として即位しました。
母メアリーも生まれてすぐに即位したわけで、そのときも実際は枢密院がスコットランド政治を牛耳っていたわけですから、赤子を王の座へ据えるのは珍しいことではありません。ジェームズの場合17歳まで摂政がつき、それまでは彼が政治を司ることはありませんでした。
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イングランド王、ジェームズ6世の誕生
(1586年頃のジェームズ)
ヴァージンクイーンの異名のとおり生涯独身を貫いたイングランド女王エリザベス1世には子供がいませんでした。彼女が亡くなったあと、後継として白羽の矢がたったのが血統的に最有力候補だったメアリースチュアートの息子ジェームズだったのです。
(テューダー朝からの家系図 左下にいるのがジェームズ)
そしてステュアート朝が開かれた
スコットランド王ジェームズ6世が、『イングランド王ジェームズ1世』として即位しステュアート朝が開かれることになりました。以後イングランドとスコットランドは、1707年に合同してグレートブリテン王国となるまで『共通の王と異なる政府・議会を持つ同君連合体制をとる』こととなります。
ジェームズはなぜ、2つの名前をもったのか
ちなみに同じ人物なのに名前が違うのは、国によって呼ばれ方が違うからです。ちなみにステュアートとは、スコットランドの宮宰職 (steward) の家系の出身であることに由来しているそうです。途中でメアリー女王がフランス語風「Stuart」に改称したものが、現在に受け継がれてきたとされています。
自分が権威をどう引き継げばいいのか
(イングランドに半世紀もの平穏をもたらしたとされるエリザベス1世)
しかし新たな王として君臨したジェームズですが、元々性格も強くはなく同性愛の傾向もあり、容姿・立ち振る舞いも王としては芳しくなかったそうで、本人も前女王エリザベスのようなカリスマ性や、人望がないことを自覚していたそうです。そこでジェームズは自分の権威を高めるために、たびたび『王権神授説』を唱えては議会と衝突していた、といいます。
王権神授説 (おうけんしんじゅせつ)とは、「とりあえず王様がいちばん」という考え方ですね。
王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対しては人民はなんら反抗できない
教養は高いが、人望はなき王
波乱万丈の人生だったが、最終的に民衆に受け入れられ愛された前王エリザベス。彼女のような信頼を自分はどうすれば得ることができるのか。そして行き着いた結果だと思われますが、「俺のいうことが絶対だ」と自ら言い出すのではあまりに不甲斐なく…..また教養だけは高かった彼は「キリスト教会で一番賢い愚か者」と評されたそうです。
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終わっていく、ジェームズ1世の治世
とりあえず結婚するも、王妃は贅沢三昧
(ジェームズ1世の妻 アン・オブ・デンマーク)
ジェームズは若い頃、女性への関心をほとんど示さず、むしろ男性のほうを好んだといいます。しかしながら、彼の君主制を強化するためには世継ぎを埋める「王妃」が必要であり、14歳のデンマークのアンが彼の元に嫁ぐことになりました。
しかし彼女はかなりの浪費家であり、ドレスや宝石と贅沢三昧な暮らしを送っていたために宮廷経費は増大、庶民からの支持は得られなかったといいます。
ジェームズ1世の主な功績
(ジェームズ1世の肖像画)
ジェームズはエリザベス1世時代に敵対していたスペインとは和解。しかしその一方で私掠船を禁止したり、「反スペイン」で関係を強めていたオスマン帝国とゴタゴタがあったり。
また、ジェームス1世はスコットランド王としてもイングランド王としても弱体な権力基盤の上に君臨していたため、自己の味方を増やそうと有力貴族たちに気前良く恩賜を授け、多額な金品を支出していました。これにさらに王妃アンの浪費によって国家財政は逼迫してしまうことになったのでした。
ジェームズに、迫りくる死
晩年どんどん病気がちになっていったジェームズ。1625年の初めに彼は関節炎や痛風、失神発作の激しい発作に悩まされ、3月に三日熱で重篤となり、彼は3月27日バッキンガム公を枕元に、シーアボールズ宮殿で亡くなったといいます。
まとめ
(ジェームズ1世と、王妃アン)
「ブリテンのソロモン王」という異名があったジェームズ1世。それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、「父親はダーンリーではなく、母の秘書のデイヴィッドであろう」という悪口でもあったといいます。(デイヴィッド=ソロモンの父ダビデのこと)
(ソロモン王と妻たち)
そもそもジェームズの母は、あの恋多き女王メアリースチュアート。多くの男性を虜にし、あちこちでスキャンダルを起こしては、また新たな男性を見つけては生き残ってきた女性でした。メアリー女王が「見た目だけで中身は空っぽね」と見放した旦那こそ、ジェームズの父ダーンリー卿だったといいますから、もしかしたら、「最も賢く愚か」といわれたジェームズは、やはり両親の性質を受け継いだのかもしれません。そんな魔性の母メアリーについてはこちらの記事 (【処刑台でも女王】魅惑の女性、メアリスチュアート) にまとめております。
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