シシィのあだ名で知られるエリザベート。オーストリア宮廷に嫁いだものの心を病み、王宮を離れてあちこち旅へ。厄介者扱いされながらも旅のなかで学び成長し、晩年はハンガリーとの関係修復に寄与するなど国民に寄り添った女性でもありました。
今日はそんな一人の皇后の物語をご紹介します。
オーストリア皇太子の結婚
1854年4月25日、つつましい花嫁がヨーロッパ屈指の王家に嫁ぎました。
結婚式では、あたらしい皇太子妃を一目見ようと何千人もの人々がウィーンの通りに集まりました。ガラスがはられた馬車にのり、ホーフブルク宮殿内にある新しい住まいに向かう途中だったシシィは、その数に圧倒されたといいます。
壮大におこなわれた王家への輿入れ、これはシシィにふりかかる一連の悲劇のはじまりであり、彼女はこうして “王室という黄金でできた窮屈な檻のなか” にはいっていったのでした。
シシィの輿入れ
私は不安でしかたがないのです、彼が皇太子でなかったらよいのですが…
シシィは家族にこう想いを漏らしたといいます。公務や王室へ嫁ぐことに乗り気でなかったシシィは、マリー・アントワネットを思い起こさせます。
しかしアントワネットはフランス国民から思わぬ歓迎を受けるや否や、怠け癖に身を任せ贅沢放題のあげく処刑されたわけで、そういった部分においてシシィは真逆で、自分の気持ちを抑圧しながら生涯を過ごしていくことになります。庶民に愛され、マスコミにおわれ、うつ病や摂食障害に悩まされたシシィの王室生活は、イギリスのダイアナ妃に近いかもしれません。
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宮廷生活になじめず、苦労した日々
1837年にドイツのミュンヘンで生まれたシシィは、7人の兄弟姉妹とバイエルンの森で遊んだり、馬に乗ったり山に登ったりと自由な子供時代を過ごしていました。そんな彼女がしきたりに厳しい宮廷へはいったのですから、苦労はどれほどのものだったのでしょう。
夫フランツ・ヨーゼフは勤勉な人物で、想像力やユーモアはほとんど持ち合わせていませんでした。フランツの母ゾフィは、帝国がゆらいでいたこともあり『皇太子妃には、賢く洗練された女性がほしい』とかんがえていました。しかし母に従順でいたフランツが、唯一譲らなかったのが『シシィを妃にすること』だったそうです。
更なる孤独へ
時が経っても彼女は宮廷に慣れることができず、厳格な宮廷のしきたりの元、内気なシシィは崩れ去っていきました。頼れる人といってもいつも仕事ばかりの夫だけで、友だちもおらず孤独だったシシィ。結婚して最初の4年間にフランツ・ヨーゼフの3人の子どもを産みましたが、幼少期を生き延びたのはルドルフ皇太子とギセラ大公妃の2人だけでした。
宮廷生活に馴染めずにいる内気なシシィを、継母ゾフィー は「なんて身中な嫁だこと」と非難し、「幼稚な嫁に、大事な世継ぎの子育てなど任せられない」と子供までをシシィから奪い取ったのでした。その後にうまれたマリーは、シシィにより自ら愛情をこめて育てられた唯一の娘でした。
継母ゾフィーとの確執
国を支えていた継母ゾフィーからしたら「国が不安定な時にこの若い娘は」といった感じだったのでしょうが、それにしたもあたりはきついものでした。
ゾフィー大公妃は、こんな嫌味を書き残しています。
シシィが泣いている姿は想像できないほど魅力的ですよ。その陰気な物腰にもかかわらず、その見事な美しさとくるぶしまでの栗色の髪のおかげで人々を魅了しているのです。かれらを誘惑するのは至高の王妃ですよ、シシィは彼らの喜びであり、彼らの偶像ですからね (参考:ウィーンの歴史家ブリジット・ハマンによるThe Reluctant Empress)
ただシシィとしては、つきまとうマスコミなんて邪魔なだけでありました。味方のいない宮廷生活で、愛しい我が子も取り上げられ夫のフランツは母の言いなり、気分が塞ぐのも無理はなかったのでしょう。
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現実逃避と美への執着
シシィはある時から異常に見た目へのこだわりが強くなり、美へ執着していくようになります。髪を整えるのに1日3時間かけ、そして19.5インチ (49.53cm) のウエストを締めるのに1時間。
まわりがおどろくほどに見た目に執着していたシシィは、現在では拒食症といわれるような、厳しいダイエットと激しい運動を続けていました。食べ物は薄い肉汁をメイン、後年はほぼ牛乳 (なんと自分の牛と一緒に移動していた) とオレンジ、卵だけを食べて生活していたそうです。
逃避旅行
1862年すっかり心を病んでしまったシシィは、できる限りウィーンのホーフブルク宮殿内にある要塞から離れたいと、ギリシャに英国、アイルランドにスイス、ハンガリーと頻繁に旅行をして過ごしました。
やがてシシィは、夫の帝国と敵対していたハンガリーに深い関心を抱くようになりました。彼女はハンガリー国民はより大きな自由と尊敬を受けるに値すると信じ、親しい友人でもあったハンガリーの政治家ジュラ・アンドラーシと協力して、ハンガリーの大義を推進します。また彼女へのお付きをハンガリー国民で満たし、ウィーンの貴族社会からさらに遠ざかっていったのでした。
シシィの功績
1867年シシィが助力となり、ハンガリーはオーストリア・ハンガリー帝国の対等なパートナーとなりました。フランツ・ヨーゼフはハンガリー王となり、シシィはハンガリー王妃となったのです。ハンガリー人は新たな自由を享受することができ、フランツ・ヨーゼフは国王のベッドに戻ることを許されました。
ちなみに先ほどの家系図に出てきた2人の最後の子供マリーは、即位の翌年ブダペストで生まれました。1867年のオーストリア = ハンガリー帝国間の和睦にあたり、シシィはハンガリー国民からおおいに愛されることとなったのです。
苦しんでいる人の力になりたい
シシィは病人を勇気づけ、王妃とは思えぬ行動で多くの人を驚かせました。
死にかけている人の手を握り、患者とお話しをしたり、その様子は “Reluctant Empress” に記録されています。下記は病院で彼女をみたご婦人が、当時のシシィの様子を語ったものです。
まるで天使のように、彼女はベッドからベッドへと渡って行かれました。
わたしは、その男性の頬には涙が流れ落ちるのをみましたよ。
シシィは精神病のあたらしい治療に興味をいだき、彼女自身の精神科病院を開くというアイデアでさえも面白がったといいます。「気づかなかったのですか?」と彼女はかつて尋ねました。「シェイクスピアでは狂人が唯一の賢明な人であるということですか?」相手は答えました。
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晩年の悲劇
1880年頃には、シシィ自身も深刻な精神疾患に苦しみました。それもそのはず、1889年最愛の息子ルドルフが愛人メアリーと共に、メイヤリングの狩猟小屋で死んでいるのが発見されたのです。そこからシシィの様子は急激におかしくなりはじめます。
狂気に満ちた様子で皇太子の自殺について語ったり、浴槽からヒステリックな笑い声が聞こえてきたり、夫フランツ・ヨーゼフはシシィを助けるために霊媒師や霊能者にも頼るほどだったといいます。既に妻帯者であったルドルフ、暗殺説も浮上しましたが、のちに心中相メアリーが母宛に送った遺書が発見されたそうです。娼婦や女優とも付き合いがあったルドルフですが、夫婦仲はうまくいっていなかったといいます。
シシィの最後
1898年9月、シシィは旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルチェーニに鋭く研ぎ澄まされたヤスリで心臓を刺されその生涯を閉じました。
倒れた彼女を周りにいた者がすぐに運び、ベンチへ座らせました。ドレスを開き、エリザベスのコルセットのひもをカットして呼吸ができるようにしました。周りの者は「痛みますか?」と尋ね、彼女は「いいえ」と答えました。今度は彼女は尋ねました、「何かあったのですか?」と。その後すぐに彼女ホテルに運ばれ、看護師がやってきました。しかし彼らが彼女を担架からベットに移したとき、シシィはすでに亡くなっていたといいます。
(フランツ・ヨーゼフとエリザベートのお墓)
シシィの遺体は、葬儀列車に乗ってウィーンに運ばれました。彼女の棺の碑文には「オーストリアの皇后 エリゼベス」と記載されていました。しかしそれにハンガリー人は激怒、それをうけ碑文にすぐに「ハンガリー女王」という言葉が急いで追加されたのでした。
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まとめ
(エリザベートと子供たちの画 実際次女以外は継母ゾフィーによって育てられた)
息子ルドルフを失ったシシィは、喪服を着たままで自らの死を願ったそうです。そのためか、フランツ・ヨーゼフが『死を知らせる電報』を受け取ったとき、頭によぎったのは「シシィの自殺」だったそうです。そして暗殺の詳細を記した書を受け取ったあと、少しだけ安堵したとか….。
この絵でシシィは2人の我が子を抱いていますが、実際は産まれてすぐに継母が奪い去ってしまっていますので、これは彼女の願いを形にしたものなのかもしれません。
継母ゾフィとしては「帝国の未来を考えて欲しい」との思いが強かったのかもしれませんが、結果して彼女に育てられたルドルフは自殺… 。本当に「未来」のことを思うのであれば、目の前の人や物を大切にすることが大切なのかもしれません。
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