わずか半年だけロシアのツァーリとして君臨した、ピョートル3世。ドイツで育ったピョートルは、プロセインに憧れフリードリヒ大王を崇拝しておりました。ツァーリになるや、彼のためにオーストリア、フランスと築き上げた同盟を破棄してロシア軍を撤退させるなどやりたい放題。お前にロシアを治める資格はない、としてとロシア全体の怒りをかいました。
「ロシア語も話せないツァーリより、ドイツ人でもロシアを想う妃エカチェリーナのほうがよっぽどいい」と妻エカチェリーナ派の軍に倒され、玉座はあっさり妃のもとへ。この記事では、女帝たちに人生を振り回されることになった、ピョートル3世の人生をみていきたいとおもいます。
ピョートル3世の幸せとはいえない幼少期
良い家に生まれたはいいが….
(ロマノフ王朝 ピョートル家系図)
1728年2月、ドイツで生まれたピョートル3世、
- 父方の曽祖父に、スウェーデン王カール11世
- 母方の祖父に、ロシアで慕われた伝説のツァーリ ピョートル大帝
と、かなり優秀な人物の遺伝子をひいていました。しかし母アンナは産褥で亡くなり、彼は母を知らぬまま、幼少時代をホルシュタイン公の城で将兵達に囲まれて過ごします。生まれた時からスウェーデンの王位継承の有力な候補と考えられていたため、スウェーデン語を教えられ、ルーテル教会の信仰の中で育てられました。
孤児となり、引き取られた先で過酷な仕打ちに
(幼きピョートルの肖像画)
ピョートルは7歳から周囲の将兵らによって軍事学を教えられ、軍隊式の行進や射撃を習いました。しかしピョートルが11歳の時に、今度は父親が亡くなります。孤児となった彼は公位を継ぎ、リューベック司教アドルフ・フレドリクの元に引き取られました。
しかしピョートルはそこで『軍人としては有能だが、教育者としては無能』と烙印をおされ、オットー・ブリュメル元帥により厳しい体罰(殴打、鞭打ち、食事を与えない等)をともなう、厳格な教育を受けることになります。引き取られた先は愛情に欠けているどころかこのざまで、廷臣たちの前でこれらの罰が行われるのですからさぞ屈辱的なおもいをしたことでしょう。
元々心身ともに虚弱で神経質な少年だった彼ですが、これでは心身に影響がでるのもムリはなく…. 後世に気分循環性障害とされたのはこのせいだともいわれています。
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気がついたら、ロシア皇太子
叔母エリザベスに連れられ、ロシアへ
そんな愛情もない、厳しい環境で育てられたピョートル。彼は芸術のほかは、ほぼすべての学問に挫折したといわれていますが、軍事パレードは大好きで、世界的に有名な軍人になることを夢見ていました。しかし14歳のときにまた転機がおとずれます。
伯母のエリザヴェータがロシア皇后となり、次の後継者としてピョートルが指名されたのです。ピョートルはロシアに連れて行かれ『王位継承者を宣言』しました。
ドイツかぶれの、ロシア皇太子
(ピョートル3世と、妃エカチェリーナ)
ロシア語があまり話せないピョートルはドイツを懐かしみ、ロシアの生活には不満だらけ。1745年8月、叔母エリザヴェータの強い推しがあり、ピョートルはザクセンのアンハルト=ツェルブスト出身の王女、キャサリン (のちのエカチェリーナ) と結婚します。キャサリンは並外れた知性を持つ若い女性でしたが、ピョートルは大人の格好をした子供のよう、皇太子が彼女を気に入ることはありませんでした。
女帝の『世継ぎを作りなさい』という言葉に従い、2人は3人の子供をもうけますが、16年間の付き合いのなかでお互いに多くの愛人を作っていたといいます。
叔母 エリザヴェータからみたピョートル3世
(叔母のロシア皇后 エリザヴェータ)
どうしたものかと頭を悩ませたのは、叔母でありロシア皇后のエリザヴェータ。
期待をかけてロシアへ呼び寄せたものの、どうもパッとしない皇太子。国を任せられないと悟るや否や、彼を公務から遠ざけたといわれています。事実として、ピョートルは祖国とプロイセンに忠誠を誓っており、ロシアにいるのがいやで仕方がなかった、といいます。ロシアの人々を気にかけることもなく、ロシア正教会のことも、妻エカチェリーナのことも嫌っていました。
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ロシアは嫌い、だけどツァーリにはなろう
(ピョートル3世の肖像画)
にもかかわらず1761年、エリザヴェータが亡くなると、ピョートルはツァーリの座につきました。ピョートル3世についての記録は、ほぼ妻であるエカチェリーナの回顧録によるものですが、それによるとこのツァーリは、妃の目に「愚か者で大酒飲みで残忍な悪ふざけを好み、兵隊ごっこにしか興味がない」とうつっていたようです。
ピョートル3世のとんでも政権
(ペチコート作戦 新興国プロセインに対する3国間の包囲網)
皇帝になったピョートル3世は、エリザヴェータが苦労して築いた外交政策をさっそく覆えします。オーストリアとフランスを裏切り、プロセインからロシア軍をさっさと撤退。
ロシアの敵であったプロイセンと同盟を結びました。彼いわく「デンマークと戦争をして故国のホルスタインを取り戻そうとした」そうですが、これは今までの犠牲者たちを裏切ったとして、軍部や有力な軍閥だけでなく、国民からもかなりの怒りをかいました。
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歴史家の見解
歴史的にこのピョートルの行動は反逆的だと見なされてきましたが、最近の研究では、ロシアの影響力を西方に拡大するという現実的な計画の一環であった可能性も示唆されています。(ただフリードリヒ大王への憧れは本物でしたので、はたしてどうなのか…)
治世における功績
そのほかの功績をあげますと、彼はロシアで最初の国営銀行を設立し、穀物輸出を増やしロシアで採れる原料を禁輸することで重商主義を奨励するなどしていました。ピョートル3世はまた、宗教の自由を宣言したり秘密警察を廃止したり、土地所有者による農奴の殺害を禁止するなど、今日では民主的と思われる多くの国内改革を実施しました。
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あとがきにかえて
(ピョートル3世の肖像画)
プロセインから軍を引いたことで、不信を招きわずか半年でツァーリの座を剥奪されたピョートル3世。その後は、聡明な皇后キャサリンが『エカチェリーナ2世』として即位しました。ピョートル3世の廃位については、さまざまな憶測が飛び交っています。一般的にいわれているのは、
- 改革によって正教会や多くの貴族が疎外され、怒りを招いた
- また彼の性格や政策が奇抜なため予測不可能で、危険だと見られた
- これらの派閥がキャサリン (エカチェリーナ) に助けを求めて、陰謀を企てた
というものですね。しかし最近の研究では、キャサリンをよく思わないピョートルが彼女を排除しようとしたため、キャサリンを筆頭に両者の支持派がぶつかったとされる説が有力です
(ピョートル3世とエカチェリーナ2世の肖像画)
今回キャサリン(【ロマノフ王朝 エカチェリーナ2世】だれよりロシア人の大女帝) の記事をさきに書き、「ピョートル3世は頼りないなあ」と思っていたのですが、幼少期を辿っていくと英雄の血を引くが故に、苦労がたくさんあったことがわかり複雑な気分になりました。愛情なくして、育つって色々と弊害がうまれるものなのですね。
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