映画『アマデウス』は天才モーツァルトにより、人生を狂わされたサリエリの想いを綴った作品。しかし、あれは「あくまでスキャンダルを元にしたフィクションであり、実際は逆だった」ことはご存知でしょうか。
モーツァルトが望んだウィーンの宮廷作曲家の地位はサリエリにとられ、皇帝ヨーゼフは「サリエリ」をお気に入りとして亡くなるまで彼を宮廷においたのです。この記事では、サリエリがいるために常に2番目とされ苦水を飲み続けたモーツァルト、意外な事実を紐解いていきたいとおもいます。
- 天賦の才をあたえられた男モーツアルトと、努力のサリエリ
- ふたりのライバルは比べられ続けたが、公式に勝ち続けたのはサリエリ
- 宮廷の求める音楽を安定的に作り続けるサリエリが重宝されていたのだった
モーツアルトとサリエリ
(右がサリエリ、左がモーツアルト)
モーツアルトは、「天賦の才をあたえられた男」と称され、名を馳せた音楽家ですね。
1756年に生まれた彼は亜、6歳ですでにメヌエットを完成させ、シェーンブルン宮殿で演奏し皇帝らを驚かせた神童でありました。数々のオペラのなかで、彼はヨーロッパ内での流行を汲み、新しい風潮を取り入れ、プラハやウィーン郊外の劇場で大きな成功をおさめたことでも有名です。
さて、一方サリエリとはどんな人物であったのでしょうか。
サリエリは、特にイタリア・オペラ、室内楽それと宗教音楽において高い名声を博した音楽家でありました。オーストリア皇帝に仕える宮廷楽長としてヨーロッパ楽壇の頂点に立った人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもありました。こういうと難しく聞こえますが、つまり、宮廷が大のお気に入りとした音楽家であったのです。
モーツアルトの地位
しかし『神童』ときくとさぞ軽やかに生きてきたかと思いきや、そうではないのです。モーツアルトの作る曲は斬新で目新しすぎるとされ、決して豊かではない生活をなんとか後援者の依頼でおぎなっていくことになります。
ヴァイオリニストで作曲家でもあった父レオポルトは、幼い頃から子供の才能に気づいており、ある程度の地位を確立できるようモーツァルトがウィーン宮廷で演奏できるよう力を尽くしました。
そして宮廷で、見事な演奏をみせたモーツァルト。愛嬌も持ち合わせていたモーツアルトは、多くの貴婦人を魅了しました。
宮廷での扱い
モーツァルトが12歳のとき、オーストリア皇帝ヨーゼフはこう尋ねました。
オペラを作曲したいか?
モーツァルトが作曲したイタリアオペラは一度も上演されることがなく、彼が料金を受け取ることもありませんでした。たしかにモーツアルトの才に惹かれるところはあったのですが、ヨーゼフ2世は、モーツァルトに宮廷における正式な地位を与えることは渋ったのです。
父レオポルトは音楽家たちと口論になり彼らは「ホンモノに興味がないのだ」としてウィーン人を非難したといいます。
なかなか官職は得られず
18世紀〜19世紀にかけて、貴族や裕福な中流階級が音楽家のパトロンとしての役割を担うようになっていきました。その存在はモーツァルトが裕福な医師らのためにシンスピール・バスティエン、バスティエンヌなどを作曲したことによって示されていますね。
しかし宮廷は依然として、音楽家の憧れの場所でありました。ときは女帝マリア・テレジアの時代、オペラや劇場の責任者は彼女の息子であるフランツ・ヨーゼフ (ヨーゼフ2世) でした。
官職を得られなかったモーツアルトはそこで生計をたてつつ、ウィーン宮廷だけでなく、フィレンツェ、ナポリにパリなどでも演奏をしました。
しかし、そこでも官職を得ることはできませんでした。
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モーツァルトの前にサリエリあり
映画では、モーツアルトの才能にサリエリが打ちひしがれる場面が印象的ですが (実際そういったっこともあったのでしょうが)。実際、地位の面でみると、モーツアルトの前には、サリエリの方が大きな壁として立ちはだかっていたのです。
ウィーンでは、モーツアルトと宮廷作曲家サリエリの争いに関する噂が飛び交っていました。
しかし、サリエリは宮廷作曲家の地位を独占するだけでなく、シェーンブルン宮殿のオランジュリーでのオペラコンテストでもモーツァルトに勝利しています。モーツァルトは、ここでもサリエリに破れ苦汁を飲まされることとなったのです。
けしかけられた二人
1785年の冬、ライバルとなった2人にヨーゼフはオペラ・コンテストをけしかけました。
舞台は1786年2月オランジェリーでひらかれた祝賀会。2人の作曲家は一幕の短いオペラをつくり、向かい合った2つのステージで上演することになったのですが、すでに演奏順に階級があらわれていました。
モーツァルトのオペラは前奏曲として演奏され、とりはサリエリだったのです。ちなみにサリエリのオペラは2倍の長さで大成功をおさめ、報酬はモーツァルトの2倍だったそうです。
皇帝はサリエリを好んで
1781年のクリスマスイブ。ヨーゼフ2世はモーツァルトをイタリアの作曲家ムジオ・クレメンティとのピアノコンテストに招待しました。
結果モーツァルトは勝ち、どちらが勝つかロシア王女と賭けをしていたヨーゼフ2世も賭けにかったわけですが、「王位継承者フランツ2世の花嫁音楽教師の地位」は、モーツァルトの宿敵アントニオ・サリエリに与えられたのです。
失望したモーツアルトは、こう愚痴をこぼしたといいます。
皇帝にとってはサリエリがすべてなのだ
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なぜモーツアルトは受け入れられなかったのか
こうみていくと、映画『アマデウス』とはなんだか逆の話ですよね。なぜ皇帝がサリエリを好んだのかは諸説あるわけですが、当時モーツァルトが宮廷に受け入れられなかった理由として、あまりに洗練されて、革新的だったことがあげられるでしょう。
- モーツァルトはそれまでの厳格な音楽の慣習をやぶり、
- 個性的で革新的なモチーフをふんだんにいれた曲をつくった
のです。逆に、ウィーンの音楽は主に祝いごとや仮面舞踏会、宴会の陽気な伴奏として楽しまれており、シンプルで朗らかなものが求められていたのです。
運命が別れたふたり
その後モーツァルトは、社交界の女性たちに音楽を教えたり、貴族の宮殿でサロンコンサートをひらいたりして生計をたてることになります。
ここでの演奏は、とくに高く評価され、ついにモーツアルトはついに「宮廷作曲家に任命」されることとなったのです。しかし、そこではサリエリが『宮廷楽長』とつとめており、ここでもモーツァルトは第二位の地位にとどまる運命にありました。
モーツァルトの晩年は収入が減り、借金を抱えていました。それはモーツァルト自身の品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因といわれています。
(アントニオ・サリエリ)
モーツァルトの才能に恐れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏で彼を妨害した、ともいわれていますが、実際サリエリは社会的・経済的にも満たされておりそれは考えにくい、という研究結果もでています。
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まとめ
モーツアルトの斬新で個性的な音楽は、先を行き過ぎていたのか、無邪気さが災いをしたのか、ときに物議をかもすこともありました。その点でサリエリは古典的な音楽を重視して、当時のウィーンで好まれた曲やオペラを安定的に作り続けていたのです。
「皇帝ヨーゼフ2世」は、あの革命で殺されたマリー・アントワネットの兄ですね。
フランスでは皇帝や貴族に対する不満がつのり、平等を求めて市民が蜂起した時代でありました。当然皇帝も情勢には目を光らせており、『フィガロの結婚(※)』に最初反対したのも国民を刺激したくないという政治的判断からでした。(※ 封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判しており、たびたび上演禁止に遭った)
(左が兄ヨーゼフ2世、右がフランスへ嫁いだ妹アントワネット)
それらを考慮すると、宮廷としても『楽長』にするならば、自由なモーツァルトより、安定して『時代を汲んだ音楽』を提供できるサリエリを登用したのもわかる気がするのです。
モーツァルトは「サリエリのせいで昇進できない」と嘆いたそうですが、2人の違いは才能というよりは、「社会的立ち位置」を考慮したか否かであり、どちらも素晴らしい音楽家であったのは変わらないのでしょう。
評価をくだすのはいつも後世の人ですから、100年後にはまた人々の見方もかわっているかもしれませんね。
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