ゴッホの耳切り事件には、ゴーギャンとの関係が深く関係していたといいます。この記事では、なぜゴッホは自分の耳たぶを切り落とすという奇行に走ったのか、この記事では、ゴッホとゴーギャンの関係を探りながら、あの耳切り事件について迫っていきたいとおもいます。
貧困にあえぐ無名の画家
1853年3月30日にオランダで生まれたゴッホ。
ゴッホは現代で最も偉大な画家のひとりとなっていますが、当時は貧乏にあえぐ無名の画家でありました。幼い頃から神経病などの精神的な問題を抱えていたゴッホは気難しく、家族でさえ彼を疎ましく思っていました。
ゴッホはアートギャラリーで働き、しばらくロンドンに住んでいました。
一時期献身的なキリスト教信者となり、ベルギーで牧師になったりと色々と人生を迂回をしますが、最終的に弟テオの助けもあり画家として歩み、1880年には芸術家を志すようになりました。ゴッホは画家としては主に独学で学んだため、これが彼のユニークで刺激的な画風の元となっているのかもしれません。
一流画家との出会いと作風の変化
1885年にゴッホは、美術商として成功した弟テオと妻が暮らしていたパリに移りました。
弟テオは献身的に兄を支え、またゴッホも彼を慕っていました。2人の間でおこなわれた文通は出版され、今でも広く読まれています。テオは芸術界に多くのコネがあり、多くの芸術家に彼を紹介しました。ゴッホが、ポール・ゴーギャンや、ジョルジュ・スーラといった一流の芸術家と知り合いになったのもこの頃です。
彼らに触発されたゴッホは、自身のスタイルも変わり画家として成長し始めます。彼の初期の作品はこの「ジャガイモを食べる人」 などの絵画に見られるように暗い色調が多かったのですが、次第により多くの光を絵に使うようになり、色彩が豊かに明るくなっていきました。
ひまわりを描くゴッホの肖像
こちらはゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像画。
展覧会で知り合い、やがて文通をするようになったゴッホとゴーギャン。
金銭的に困っていた彼にゴッホは一緒に住むことを提案します。「一緒に住むのならばゴーギャンの絵を買いましょう」という弟テオの申し出もあり、ふたりはアルルで共に暮らすようになりました。ゴッホは、ふたりで過ごす家を飾ろうとたくさん『ひまわり』を描きました。
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お気に入りの『黄色い家』
1888年、ゴッホはテオの援助をうけ、南フランスのアルルに家を借りました。
彼は芸術家として、アトリエを持つことを望んでおり、この家が大変気に入ったといいます。また彼の人気を誇る作品の多くはここで描かれており、ひまわりシリーズもここで描かれています。
またゴッホはアルルの田舎をとても愛し、その地を描いた素晴らしい作品も何点も残しています。ゴーギャンとルームシェアをしていたときにこれらの名画が多く制作されたのでした。
事件がおこったのも『黄色い家』
ゴーギャンはもちろん、『ひまわり』もゴッホの切断された耳の物語と深いつながりがあります。「ひまわり」が描かれたアルルの地。ゴッホはこの田舎と光に魅了され多くの絵画を描きました。この時代の彼の作品は、黄色と青色のコントラストに富んでいます。
アルルでは、ゴッホは黄色い家)と呼ばれた宿舎を借り、ゴーギャンを泊める部屋を用意をしていたわけですが。しかし後にここは、「自分の耳を切断して恋しい人へ、愛の証として送る」という、逸脱した行為の舞台となってしまうのでした。
才能がぶつかる2人
(左:ゴッホ 右:ゴーギャン)
最初は馬があった2人でしたが彼は怒りっぽい性格で、とても横柄でした。彼らはすべてについて口論を始め、激しいけんかの後、ゴッホは彼の耳たぶを切り落としたのです。
この出来事は、1888年12月23日ゴッホと一時ルームシェアをしていたポール・ゴーギャンとの口論がきっかけとなりおこりました。ゴッホが自分の耳を切断した理由は議論の余地が残されていますが、本当の話は誰にもわかりません。
ゴッホの奇行
あろうことか、錯乱状態になったゴッホは耳の下部を切り取り、それを夢中になっていた女性に差し出したのです。色々な研究がなされましたが、ゴッホがなぜこのような自傷行為を行ったのかはわかっていません。
ただゴッホは精神的に相当に参っていたようで、耳たぶを切り落とした彼は地元警察によって近くの病院に連れて行かれ、後にサン・レミの精神病院に移されました。当時の記録によると、ゴッホの奇行が生々しく残っています。
先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。 — 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日c
その後のゴッホ
精神病院にはいったゴッホでしたが、幸運にもスタッフに恵まれ穏やかな時間を過ごすことができました。
ここで出会った親切な男性医師のすすめで、ゴッホはたくさんの絵を描きました。信じがたいことですが、あの有名な「星月夜」などの偉大な作品は、この精神病院にいるときに描かれたのです。
回復したゴッホは精神病院を出ると、パリの近くの小さな町に引っ越しました。
しかしここでもまた絶望と孤独に苛まれ、「何をやっても失敗した」と思い込み、ゴッホは1890年自ら命を断ちます。享年37歳、若すぎる死でありました。死後、彼の名声は高まり、彼は西洋芸術の最高の天才の一人として認められています。
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あとがきにかえて
(アルルの寝室 1888年 ヴァン・ゴッホ美術館、アムステルダム)
先ほど出てきた、「耳の舞台」となったアルルの黄色い家。
ゴッホとゴーギャンは最初は穏やかな日々を送っていたふたりですが、段々と意見の違いから対立していきます。そしてある日、ゴーギャンとの言い合いをきっかけに自分の左耳を切り落としてしまいます。そしてその耳を、お気に入りだった娼婦に「これを自分だと思って大切にしてほしい」とプレゼントしたのです。
警察沙汰になりゴーギャンとの関係は破綻、ゴッホは精神病院に入ることになりました。精神異常者だとされたゴッホですが、誰にもわからないどこか純粋な気持ちもあったのかもしれません。
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