フェリペ2世はスペイン王カルロス5世と、ポルトガルのイザベラの一人息子。世界各地に植民地をつくり、『陽の沈まぬ王国』とよばれたスペインハプスブルク家の最盛期を築いた人物です。その名声の一方で、他国からは恐れられるもイングランドのエリザベス1世にぼろ負け、悪名でも名を馳せました。今日はそんな最強で破天荒なスペイン王、フェリペ2世の人生をみていきましょう。
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陽の沈まぬ帝国の絶対君主、フェリペ2世
スペインハプスブルク、2代目の王
フェリペ2世は、1527年スペイン王としてはカルロス1世と、イザベル (ポルトガル王マヌエル1世の娘)との間に生まれました。スペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねていた父カルロス1世は、当時のヨーロッパで最大の勢力を誇っていました。そんなスペイン・ハプスブルク家の全盛期に君臨したフェリペ2世は、スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、『絶対主義の代表的君主の一人』とされています。
陽の沈まぬ帝国と呼ばれた、スペインハプスブルク家
そんな繁栄期にスペイン王を継いだフェリペ2世。彼のスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大していきました。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承。こうしてスペインは世界各国に領地をもち、その繁栄はいつもどこかで『太陽』が出ているという意味で、『陽の沈まぬ帝国』と形容されました。
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フェリペ2世の元に嫁いだ女性たち
マリアとの間に、ドン・カルロス
1543年に彼はいとこのマリアと結婚、2人の間にはドン・カルロスが生まれます。しかしマリアは、息子誕生の翌年に亡くなります。世継ぎができたかと思いきや、そう事はうまく運ばず。
当時のボヘミア大使の手紙には、
カルロスは肩の高さが違い、右足が左足より長く、頭が大きすぎる。胸はくぼみ、背中にこぶがある。まるで子供のように愚かしい質問ばかりする。高尚なことに興味を示したことはなく、食べることにしか関心がない。際限なく食べ続けているので、よくいろいろな病気にかかり、顔色はひどく悪く、長生きはできないだろう
と書かれていたといいます。これもまた、ハプスブルク家特有の血族結婚の影響だったのでしょうか。ドン・カルロスは父に反逆しネーデルランドに行こうとして逮捕監禁され、24歳で牢死しました。
イングランドを狙って、女王メアリー1世と結婚
フェリペは1540年に父からミラノ公国を授与され、1554年には11歳年上のイングランド女王メアリー・チューダーと結婚します。カトリックの守護者を自称したハプスブルク家。ヘンリー8世の影響でプロテスタント国家となったイングランドを、カトリックに戻そうとするメアリーの欲につけこんだ形でした。
しかしフェリペ2世が、メアリーのことを気にかけることはありませんでした。メアリーはフェリペ2世を気に入り子供を産もうと前向きに動き想像妊娠にまで至りましたが、お腹のそれは腫瘍であり、メアリーはそれをきっかけに命を落とします。メアリーとの結婚にいたっては英国議会が「女王亡き後は、フェリペがイングランドの国政に関与しない」という条件を出しておりましたので、フェリペ2世は、やむなくイングランドから撤退することになったのでした。
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征服者としては最強だが、後継ができず
息子の婚約者、エリザベートとの結婚
(エリザベートの母は、かの有名なカトリーヌ・ド・メディシス)
子供ができずにこの世を去ったメアリー1世。次はどうするのかと思いきや、フェリペ2世は1559年、フランス王アンリ2世の長女エリザベート・ド・ヴァロワと結婚します。この結婚はスペイン・フランス両国で結ばれたカトー・カンブレジ条約によるもので、エリザベートはもともとフェリペ2世の一人息子ドン・カルロスの婚約者だったのですが、まさかの死去により花婿が父に変わるという驚きの展開でした。
エリザベートは、イサベルとカタリーナの2女をもうけたますが1568年に亡くなります。世継ぎの男児ができない….歳を重ねたフェリペ2世は次第に焦り始めました。
ハプスブルク家特有の、近親結婚
子供が産めそうな伴侶を探さなくては….。1568年、フェリペ2世はオーストリア・ハプスブルク家のアナ・デ・アウストリアと結婚することを決めます。彼女の母マリアはフェリペ2世の妹であるという関係から2人は伯父と姪の結婚となり、近親結婚となるためローマ教皇ピウス5世は反対しました。しかし当時スペイン・ハプスブルク家の勢力のほうが強く、半ば押し切る形でフェリペ2世は結婚。
彼女とは4人の息子と1女(マリア)をもうけますが、いずれの子供も夭折しフェリペ3世だけが生き残りました。濃すぎる血により子孫に次々と影響がでていくのですが、ひとまず次の跡取りはできたわけです。
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カトリックの守護者
徹底的な、異端者の弾圧
フェリペ2世は、カトリックのフェルディナンドとイザベラの政策を継承しました。ルター派の異教はバリャドリッドやセビリアなどの各地に現れたわけですが、彼はルター派異教の抑圧には無慈悲でした。「もし私の息子があなたのように罪を犯していたら?」と異端で死刑になった紳士にきかれたとき、フェリペ2世は「私は自分の手で彼を杭まで導くべきだ」と答えました。
またフェリペ2世はプロテスタントに傾きかけたイギリスをなんとか手にいれ (支配し) ようと、前妻メアリーの後をついだエリザベス1世に結婚を申し込みました。しかしエリザベスは機転のきいた焦らしの名人で、政治ゲームも巧みだったのです。エリザベス1世はコミュニケーションを密にし、友情を築くふりをしてフェリペをうまく利用しましたが、彼の結婚の申し込みは決して受け入れませんでした。
フェリペ2世を手玉にとったエリザベス1世
ブラッディマリーと呼ばれた義理姉とはちがい、宗教において中立を保ったエリザベス1世。フェリペ2世は結婚によって、イギリスをカトリックを書き換えようとしたのです。彼女が世界中のプロテスタント利益の保護者となり、低諸国の反乱を促進するために力を尽くした時、フェリペは、スコットランド女王メアリー・スチュアートを支持することで対抗しようとしました。
しかしフェリペとメアリー・スチュアートにより暗殺されかかり、堪忍袋の緒が切れたエリザベス1世は1587年にメアリーの処刑を決めます。もう埒が明かないと、スペインの無敵艦隊をイギリスに送り込んだフェリペ2世。しかしイギリスの戦略的な攻撃と、嵐によってスペイン艦隊はほぼ全滅。フェリペ2世は結局、イギリスに手を出せず仕舞いで自国へ帰っていったのでした。
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あとがきにかえて
フェリペ2世といったら、もう一つ覚えておきたいのがポルトガルの支配です。
フェリペ2世の容赦ない宗教の異端政策に対して、1568年にはネーデルラントの反乱が、アルプハラース山地でモリスコ(キリスト教に改宗したモーロ人)の反乱が起こりました。それでもフェリペ2世はカトリック盟主として1571年、レパントの海戦を率い、異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアをヨーロッパ連合艦隊の総司令官に任命。最終的にオスマン帝国海軍に勝利し、1579年にネーデルラント南部諸州を八十年戦争から離脱させ、1580年にはポルトガルを併合に成功しました。
フェリペ2世は1580年のポルトガル併合によって、インディアス(新大陸)、フィリピン、ネーデルラント、ミラノ公国、フランシュ=コンテ、ボルネオ島(以上ポルトガル王国領)といった広大な領土を手に入れ、「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれるスペイン最盛期を迎えました。なんと1584年には日本から来た天正遣欧少年使節を歓待しており、そこで示した愛想良く快活な振る舞いは、普段の厳かで抑制的な態度と異なり周囲を驚かせたという逸話も残っています。
これだけの植民地を支配したのですから、利害関係しかりさぞ冷酷な部分も、調子の良い部分もあったのでしょう。スペイン・ハプスブルク家はフェリペ2世の代で最盛期を迎えますが、近親結婚の影響から生まれる子供たちは弱体化しわずか5代で幕を閉じるのでした。
ちなみにフェリペ2世といえば、その女癖の悪さでも名が通っていますが、その火の粉はイングランド王女たちにもふりかかっていました。イングランドの女王たちとのゴタゴタは、こちらの記事 (【血まみれの王室】スペイン フェリペ2世に狙われた、イングランド女王たち) にまとめております。
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参考文献
- https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_II_of_Spain
- https://www.britannica.com/biography/Philip-II-king-of-Spain-and-Portugal
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