絶対的な権力をもったルイ14世の弟に生まれたフィリップ1世。『太陽王』と呼ばれた兄とはときに親友でありライバル、嫉妬され疎まれながらも最後まで兄を支え続けた弟帝でありました。この記事では、兄の影に隠れてあまり語られない弟帝フィリップについてご紹介します。
太陽王の弟帝、フィリップ
ムッシュと呼ばれたルイ14世の弟フィリップは、王国の政治問題には関与しなかったことで知られています。フィリップは慣習や両親の意向の元、幼少期に女の子のような格好をさせられていました。次第にドレスを着ることに興味を持つようになったフィリップ、女装癖は成人しても続き指輪やブレスレットを身に着け、リボンやレースで身を美々しく装うことを好みました。
フィリップの男色と、女装癖
最初の妃アンリエッタの親友ラファイエット夫人は著書『アンリエッタ・ダングルテール秘話』で、フィリップの女装癖やナルシズムを指摘、チヤホヤされることで自尊心を満たしていたと告白。2番目の妃リーゼロッテも「公爵はダンスが上手ですが女性側の踊り方で踊る。彼は女性のようなハイヒール靴を好むので、男性側として上手に踊れなかった」と記しました。
オルレアン公フィリップは、当初は『プチムッシュ』と呼ばれていました。これはアンシャンレジームの下で王弟を指す名称であり、『グランドムッシュ』として知られるオルレアン公ルイ13世の弟ガストンとの混同を避けるために使用されました。オルレアン公ルイ13世の弟ガストンとの混同を避けるため、アンシェン・レジームのもとで用いられた称号でした。1660年にガストンが亡くなるとフィリップの称号は単にムッシュに変更され、20歳でオルレアン王朝の家長になりました。※ アンシェン・レジーム (フランス革命以前のブルボン朝、特に16~18世紀の絶対王政期のフランスの社会・政治体制をさしている)
ヴェルサイユを避けてパリで暮らす
ベルサイユよりもパリの自宅を好んだフィリップは、サンクラウドのシャトーと首都中心部のパレ・ロワイヤルの間を宮廷を避けて過ごしていました。彼の所有する宮殿、ル・ノトルが設計した庭園やミニャールが描いたアパルトは、ルイ14世のヴェルサイユに匹敵しました。
1671年最初の妃アンリエッタが亡くなると、フィリップは兄ルイ14世の命令でドイツ王女エリザベス・シャーロットを迎えました。ふたりの間には、ルイ15世の摂政となるフィリップ2世と、シャルロット嬢を含む3人の子供が生まれます。
女々しい衣服と贅沢な装いを好んだフィリップは男色で、お気に入りの男性にかこまれ日々を過ごしていました。弟の行為を懸念した王ルイ14世は彼の声や忠告も聞かず、政治的問題から遠ざけました。
戦闘にたけた弟、嫉妬する兄帝
とはいえ、フィリップは戦闘に長けており、1677年4月11日の『カッセルの戦い』ではオラニエ公ウィリムに対する輝かしい勝利を収めました。これは仏蘭戦争を決定づける戦闘でもあり、フランスにとって大きな貢献でありました。
フィリップの勝利は兄を喜ばせた一方で嫉妬心を掻き立てることになり、フィリップは指揮権を与えられず戦場にも出してもらうこともなくなります。帰国後は宮廷で重要なポジションを与えられることもなく趣味に熱中していましたが、晩年は鬱病で無気力となり取り巻き達を遠ざける生活が続きました。幸いなのは妻リーゼロッテとの関係が好転したことでしょう。
ルイ14世と弟フィリップ
兄との口論と、フィリップの最後
兄の影に隠れ続けたフィリップは1701年6月9日、サン=クルーで脳卒中により60歳で亡くなりました。死の前日、スペイン継承戦争に参戦する王族の顔ぶれについて兄と口論になったことが伝えられています。
兄の庶子ルイ・オーギュストとルイ・アレクサンドルが参戦を許されていたのに対し、フィリップの息子のフィリップ2世が参戦を拒否されていたことを不満として兄と怒鳴りあい、直後の食事中に昏倒したことが原因ではないかとされています。父の最後の抵抗あってかフィリップ2世はオルレアン公位を受け継ぎ、1706年に許可が下りてスペイン継承戦争に参戦することになりました。
知っておきたい知識
幼いうちにフランス国王となったルイ14世、『陳は国家なり』といいながらも、臣下たちを従える苦労は並大抵のものではありませんでした。戦争に多額を使い込みさらに負傷した兵士たちをつかって壮大なヴェルサイユ宮殿を建設した太陽王。彼には敵も多く、良い顔をして近づき命を狙う輩も多かったといいます。フィリップが兄のためにと行動したことも兄帝ルイ14世は疑ってかかり、そのすれ違いが絡み合いときに口論を起こすこともありました。
一方太陽である兄の陰に隠れ、唯一特異である戦争での活躍を嫉妬で制限されてはフィリップもたまったものではなく、王族だからこその”しがらみ”が2人には多くありました。しかしふたりの結びつきは不思議なもので、最後まで強い関わりを持っていたのもたしかです。ときにライバルときに親友、華々しいルイ14世の活躍の裏にはみえない弟帝の存在があったのかもしれません
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