【マリーアントワネットが処刑された日】絵画でみるフランス王妃の最後

フランスの歴史
この記事のポイント
  • 処刑が決まると、アントワネットは不衛生な独房にひとり閉じ込められた
  • 寒さが堪える部屋で、厳しい監視の中、迫りくる処刑の日を待った
  • 処刑の日、アントワネットは頭を落とされ、遺体は共同墓地へ投げ捨てられた

マリー・アントワネットが処刑されたのは1793年1月21日のこと。彼女は「長く苦しませないでほしい」と求めましたが、死刑執行まで2カ月以上も惨めな暮らしを強いられることになります。この記事では、当時の絵画を用いて、マリー・アントワネットがギロチンにかけられるまでをおっていきます。

最後の日々

王冠は奪われましたが、わたくしは王妃でした。夫はあなた方に殺され、子供達も奪われてしまいました。残っているのはわたくしの血だけです。それも差し上げましょう、でも私を長く苦しませないでください。

この言葉は、検察官が起訴状を読んだ後のマリー・アントワネットが口にしたものだと報告されています。しかし元王妃はこのあとパイプの煙やネズミの尿、劣悪な衛生設備の臭いがする騒々しいかびた地下牢で裁判と処刑の2カ月半前を過ごすことをまだ知りませんでした。

タンプル塔での牢獄生活

幽閉中のマリー・アントワネット

マリー・アントワネットは娘のマリー・テレーズと義理妹エリザベートから引き離され、パリのタンプル塔の牢獄にいれられました。

夫ルイ16世は早くに処刑され、王太子ルイ・シャルルは1ヶ月も前に連れて行かれたままで、元王妃の独房は中庭より下に位置していました。煉瓦タイルの床は泥だらけのぬめりで覆われていて、塔がセーヌ川に近いせいで、壁からは水が滴り落ちていました。

女王はむきだしの壁を見つめ、ベッドに足を伸ばしました。地下牢にはベッド用の藁の束がいくつか用意されていましたが、彼女の部屋にあるのは折り畳み式の簡易ベッドで、看守は「それすらお前にはもったいない」と言い放ったそうです。

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最後を過ごした部屋

幽閉中のマリー・アントワネット

しかし当時の刑務所長であるトゥーサンとマリー・アン・リチャードは、慈悲深いことでで知られており囚人にも敬意と配慮を示しました。彼らは大きな危険を冒してマリー・アントワネットに小さな慈悲を与えました。

枕、2つの藁の椅子がある小さなテーブル、小さな木箱とポマードのブリキの鍋です。

王妃と看守はつねに監視されており、女王と2人の衛兵とを隔てるのはパーテンションだけで、彼らは一日中酒を飲み、タバコを吸いトランプをしていました。マリー・アントワネットの収監中の生活費は綿密に記録されていました。

脱獄を試みるも

幽閉中のマリー・アントワネット

1793年8月28日、王党派のシュヴァリエは、花びらにメッセージを巻いたカーネーションを女王の独房に落としました。これは「カーネーション事件」として知られる最初の事件で、目的はアントワネットの脱獄でした。

そこには「また金曜日にきます」といったメッセージが曖昧に書かれていました。元王妃はピンを使って「誰とも話せません。私はあなたを信頼しています」というメッセージを返しました。

計画は実行に移されますが、賄賂を受け取っていた警備員が直前になって反対し失敗。マリー・アントワネットは独房に戻されてしまいました。

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死刑宣告

マリー・アントワネットの裁判

以降彼女への扱いはさらに厳しくなりました。部屋が寒くマリー・アントワネットが毛布を求めても認められず、供給物はすべて検問を通らなければなりませんでした。

マリー・アントワネットの裁判は長く、10月14日に15時間のセッション、10月15日から16日にかけて24時間のセッションから始まりました。陪審の評決は肯定的で、彼女が死刑宣告を聞いたのは午前4時半。独房の中で、彼女は一言もしゃべらなかったといいます。

エリザベートへの遺言

タンプル塔

警備員がマリー・アントワネットを独房に戻した後ペンと紙を求め、ルイ16世の妹エリザベートへ手紙を書きました。

最後に手紙を書きます。私は、これは犯罪者が待つだけの悪名高い死ではなく、あなたの兄弟の元へいき再び加わることだと思っています。無実の彼が最後に見せたのと同じくらいの強さを見せようとおもいます。

私はかわいそうな子供たちを残すことがひどく悲しいです。私はあなたと子供達がいなければ生きてはいられなかったでしょうー 私たちといるためにすべてを犠牲にしたあなたへ

しかしこれは看守たちにより握り潰され、彼女の元へ届くことはありませんでした。エリザベートはアントワネットの娘マリー・テレーズに心をしっかりと保つよう説き、最期の時まで彼女を支え続けた人物でありました。

処刑の日

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

翌1793年10月16日 午前11時、処刑人のサンソンが現れます。刑務所長夫人マダム・ボーは、サンソンが女王の髪を切ったこと、そして女王が後ろを振り返って死刑執行人が髪の毛をポケットに入れているのを見たことを確認しました。

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

午後12時30分、マリー・アントワネットは革命広場のギロチンに連れて行かれました。元王妃の頭が落ちた後、それを群衆に示し彼らは「共和国万歳」と叫んだといわれています。

ギロチンでの処刑後、マリー・アントワネットの遺体は棺に入れられ、マデリン教会の裏の共同墓地に投げ捨てられました。1815年ナポレオンが追放された後、ブルボン王政復古によりルイ18世が王位に復帰。

ルイ18世は、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの遺体を掘り出すよう命じ、2人はサン・ドニ大聖堂で他のフランス王族とともに正式に埋葬されました。

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まとめ

マリー・アントワネットの処刑 (ギロチン)

処刑が決まると、不衛生な独房にひとり閉じ込められたマリーアントワネット。寒さが堪える部屋で、厳しい監視の中、迫りくる処刑の日を待つこととなりました。処刑の日、アントワネットは頭を落とされ、遺体は共同墓地へ投げ捨てられることとなったのです。

長女の姉マリー・テレーズはひとりタンプル塔の部屋に閉じ込められ、弟ルイ・シャルルことルイ17「共和政府の考えを学びなさい」と独房へおくられました。

フランス革命から生き延びたのは、長女のマリー・テレーズだけでした。彼女は誰とも会話がないまま2年間を息抜き、最終的に国同士の交渉をへて母の故郷オーストリアへと逃げることができました。実際にアントワネットの命を奪ったのはギロチンですが、本当に彼女たちを殺したのは『革命派や市民の声』だったのかもしれません。

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