自ら太陽王を名乗り、神に選ばれた君主として貴族達を規則で縛り上げたルイ14世。「エチケット」と呼ばれるそれらは、国王の生活をもがんじがらめにするものでした。この記事では、国王がどんな1日を過ごしていたのかを通して、中世フランスに君臨したルイ14世の生活をご紹介します。
ヴェルサイユ宮殿における、ルイ14世の1日
ヴェルサイユでの国王の1日は、いわば寸劇のようなものでした。ルイ14世の生活は時間単位でかっちりと決められていました。国王は自分の生活ですら権力の誇示として公のものとし、貴族や廷臣へ公開したのです。ヴェルサイユの宮廷における礼儀作法は、修道院より厳しかったという説も残っています。
目覚めるとすぐに起床の儀
国王の1日は、まず「起床の儀」からはじまります。
それだけでも3つに別れており、具体的には、
- 8時の「小起床の儀」では、王族やごく少数の選ばれた貴族が国王に挨拶
- 次に内科医や外科医、秘書や執事、衣装係など職務上許可されたものが入室
- 最後に「大起床の儀」があり、100人以上の貴族達が国王に謁見
という順番で1日がはじまっていきました。
用を足している最中も進む儀式
(ヴェルサイユ宮殿 穴あき椅子)
もちろん貴族や廷臣の挨拶をただ待っているわけではなく、国王の着替えや身支度、食事もその間にすすめられていきます。ときに国王は穴あき椅子 (用便椅子)に腰掛けたままで、トイレの最中ですら見物の対象となっていました。あろうことかその瞬間に立ち会えること自体が廷臣たちにとっては名誉であったともいわれています。
貴族たちが謁見する順番も厳しく決められていました。一見国王にとっても不自由なようにみえますが、これらは「王の偉大さ」を誇示すること、そして「貴族達が自分の立場をわきまえること」など様々な目的の元につくられていました。宮廷の人たちは「暦と時間」さえわかれば、国王が何をしているかわかる、というほどきっちりと決められていたのです。
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すべての人に向け開かれた王城
不審者も簡単に入り放題の宮廷
前回の記事で、ヴェルサイユには王城の番兵をはじめ多くの衛兵がいたと書いたのですが、ヴェルサイユには貴族や廷臣だけでなくあらゆる人々が出入りしていました。そのため泥棒も入りやすく、盗難が多かったという話もあるくらいです。1667年アーヘンの和議を祝ってひらかれた大遊園会では、「参加できない者がいてはならぬ」という国王の言葉どおり、庭園の門がことごとく開け放されました。
あまりにも多くの人が集まり、諸外国の大使達は群衆の渦に巻き込まれ、王妃マリー・テレーズにいたってもでさえ立見を余儀なくされたといいます。門番に賄賂を支払い、上流人のような「剣と帽子」を借りて身につければ、来客は庭園だけでなく宮殿内にも入ることができ、王や王妃ら王族が参加する晩餐に出席することもできたとか。
(※)アーヘンの和議 :1748、オーストリア継承戦争の講和条約として、フランス・スペインとオーストリア・イギリスなどの間でむすばれたアーヘン和約のこと
出世の条件は、国王に気に入られることのみ
当時ヴェルサイユを訪れた外国人が、こんな記述を残しています。
国王に認められたがる廷臣たちの情熱は信じられないほどだ。国王が誰かをちらと見るだけで、その男は運がついてきたと信じて誇らしげにいいふらす。陛下がわたしをご覧になった!と
控えの間や鏡の回廊には、国王が姿を表す時に居合わせようと、貴族たちがいつも大勢詰めかけていました。そうして長い間、ひたすらチャンスを待ち続けながらも報われず、終わっていく廷臣も少なくなかったそうです。実力社会なんてもってのほか、国王の気持ちひとつで廷臣のポジションは変わりました。
公式寵姫の座を狙って、必死になる女性たち
男性たちにとって大切なのは、国王の厚遇をうけることでした。そして貴婦人たちにとって、それは国王と夜を共にすることを意味しました。うまくいけば「公式な寵姫」としてヴェルサイユで権力を握ることができるからです。ミサの時はいつも国王の視線を気にして、こっちを見たとか見なかったとか、嫉妬が渦巻いていたとか。
ルイ14世の公式寵姫といえば、モンテスパン夫人やマノントン夫人ですね。
しかしルイ14世はかなりの女好きだったことでも知られています。好き放題過ごしたモンテスパン夫人は最後、「いつまで寵愛を受けられるか」疑心暗鬼になり黒魔術にすがりつき、結果的に寵姫の座を降ろされたのでした。たしかに宮廷は公に開かれ、チャンスがあるともいえるのですが、国王の気持ちひとつで全てが変わってしまう生活は、かなりリスキーなものでした。
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ヴェルサイユ宮殿の台所事情
国王に出される豪華なお食事は、一種の行事
国王のため、毎回豪華な食事が用意され、「王の食事」は当時、セレモニーのようなものでした。公開会食は、銃をもった護衛兵に囲まれ、14人もの大膳職が、豪華なご馳走を盛ったお皿をもって、細い棒をふりながら進む執事官の後に続いたのでした。
それも宮殿に詰めかけた貴族や貴婦人らのあいだを縫って会食の広間まで料理を運ぶのですから、行進の苦労は並大抵ではありませんでした。ちなみにルイ14世は大食漢で、朝10時からはじまる昼食は8皿からなる8コースが通常だったとか。つまりは64皿分も食していたことになります。
大評判だった、”ヴェルサイユ宮殿の残り物”
王宮では、いちど食卓に出されたお菓子屋飲み物は、手がつけられていらくても2度と出されることはありませんでした。
当時宮廷には「水汲み」という役職があり、食事や宴会のあとに、食器や椅子を片付ける役目を担っていました。彼らは国王一家や客人たちの下げ皿を受け取り厨房に持ち帰るのですが、そのあとは残り物を好きにして良いことになっていました。
ヴェルサイユ宮殿前の広場に質素な平家建てがあり、そこでは「水汲み」たちが、国王や貴族達の食べ残しを折り詰めにして売っていたそうです。残り物といえど普段見ることもない高級品ばかりですから、噂を聞いた人々が詰めかけるほど大評判になったそうです。
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まとめ
豪華絢爛で、公にひらかれていたヴェルサイユ宮殿は、一方で貴族達の「黄金の監獄」とも呼ばれていました。
国王が定めた規則に従い、貴族達は宮殿で暮らしていました。パリに忌まわしい記憶をもつルイ14世がヴェルサイユに宮廷をうつすときいて、廷臣も貴族も「まさか」と反対したそうです。しかし最終的に多くの犠牲を出しつつも、豪華絢爛な宮殿が完成しました。
なぜ貴族達がヴェルサイユに移り住んだかというと、ルイ14世はこのあたらしい都市に、家を建築する廷臣には無償で土地を提供し地租を免除することを約束、さらには「差押禁止令」など恩恵に預かることができたのです。宮廷生活で借金まみれになる貴族もいましたからこれは、貴族達にとって魅力的な救済でもあったのです。
我こそが国王の厚情に預かりたい、出世したいという切なる思いが、名だたる貴族たちがヴェルサイユに引き寄せられたのです。しかし結果的に貴族達はヴェルサイユ宮廷から離れられなくなり、国王の温情に預かるしか出世のすべがない貴族達は、この豪華絢爛な宮殿に「閉じ込められる」ような生活を送ることになったのでした。そんな色々な人の思惑が渦巻いた王城ヴェルサイユは、何百年たった今もフランスに威風堂々とその姿を轟かせています。
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