2021年4月9日朝ウィンザー城で静かに息を引き取った、エリザベス女王の夫フィリップ王配。享年99歳、すでに前線を退いていたこともあり、あまりフィーチャーされることがなかったフィリップ王配ですが、元々はギリシャ及びデンマーク王国の王子でありました。そして世界大戦にはいり国をおわれたフィリップと結ばれたのがエリザベス女王。
父帝ジョージ6世も祝福したこの結婚、夫婦は急速な時代にあっても支え合いイギリスと帝国の行く末を見守ってきたのでした。それでも元々王子として生を受けたフィリップに、「女王の夫」という権限なきポジションに苛立つことも多かったといいます。この記事では、生涯王族としての運命に揉まれることになった波乱万丈なプリンスの人生をみていきます。
フィリップ王配の生い立ち
フィリップ王配は、1921年ギリシャとデンマークの王子として生まれました。
彼の母親であるマウントバッテン家のアリス元王女はヴィクトリア女王のひ孫にあたります。血統からいくとフィリップ殿下はヴィクトリア女王の玄孫にあたりますので、実質的には連合王国王位継承権を持っていたことになります。(2012年2月時点では第485位)。
ウィンザー城で生まれた母アリスは重度の聴覚障害を持っていましたが、少なくとも4カ国語で話すことと読唇することができました。フィリップが生まれたとき王家は英国、ロシア、プロシア、ヘッセン大公国、もちろんデンマークも含めて血統上で密接な関係がありました。
フィリップは末っ子長男として生まれ、上にかなり歳の離れた4人の姉マルガリータ、セオドラ、セシル、ソフィーがいました。
揺らぐ君主制と亡命
王家といえど、ギリシャの君主制は1863年に設立されたばかりで、しばしば政府と対立を起こしていました。そして第一次世界大戦の真っただ中の1917年、政府が王室の中立姿勢に反対したため、ついにフィリップの叔父であるコンスタンティン一世は退位を余儀なくされ家族はスイスに亡命するに至ったのです。
結局王家は3年後に一旦戻るのですが、1921年にフィリップが生まれたときには、再びトルコとの戦争で君主制は揺らぎます。その翌年の9月、コンスタンティン王は2度目の退位を余儀なくされ、その3カ月後、18カ月の王子とその家族はイギリスの軍艦に乗ってギリシャを後にしたのでした。
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冷たい亡命生活
一家はフランスのパリへと向かい、父の兄ゲオルギオス王子の妃マリー・ボナパルトの所有するパリ郊外サンクルーの別荘で亡命生活を送りましたが、家庭は円満ではありませんでした。
「王子」ではなくなった父アンドレアスは次々と愛人を作り、家庭を省みず不在が続きました。そして夫の不貞に母アリスは精神を病み、南仏の病院に入院します。神経衰弱に苦しみ、1931年にはスイスの精神科療養所に強制的に閉じ込められてしまいました。
バラバラになった家族
父は戻らず母は精神病院へと閉じ込められ、頼りの姉もドイツの貴族の元へと嫁いだために、フィリップは10歳で孤独の身となってしまったのです。情勢もあいまって、中でも外でも「君はもう王子ではないのだから」と屈辱的な冷遇を受けたフィリップ。
1928年にはイギリスへ渡り、祖母ヴィクトリア、叔父ジョージ、ルイスとともに生活することになりました。1933年からはドイツの南部にあるバーデンの学校へ転校します。1934年5月にはギリシアの王制復活が決定されましたが、コンスタンティノス1世ではなくゲオルギオス2世が王位に復帰したため、帰国することは叶いませんでした。
後に彼について、同級生は「どこかからの途方もない自信」を持った「派手ではないが、魅力的で才能があった」と回想しています。
16歳でひとりになって
その後間もなくしてフィリップが特に親しかった姉セシルが、夫ジョージと幼い息子らとともに亡くなってしまいます。原因はベルギーでの飛行機墜落事故でした。遠い地で寂しさを抱えながらも度々の電話が励みでしたがそれすらも奪われたフィリップ、彼女は3番目の子供を妊娠しており誰もが予期せぬ事故でありました。校長であるカート・ハーンは心配しつつ悲報をフィリップに伝えますが、彼がそこで崩れ落ちることはありませんでした。校長はのちに「彼は実に大人の対応であった」と回想しています。
当時16歳だったフィリップは、ドイツで行われたセシルの葬儀に参列しました。1937年のことでヒトラーが政権を握っていました。ナチスの制服と礼服に囲まれた王子の印象的な写真が情勢を物語っています。
エリザベス王女と出会い
フィリップが学校を卒業し、保護者であるマウントバッテン卿の助言によりダートマスの王立海軍大学で学ぶようになったのはその一年後のことです。彼がエリザベスに出会うのは、彼女がまだ13歳のときのことでした。やがて恋に落ちた2人の婚約は、1947年7月9日にエリザベスの父帝ジョージ6世により発表されました。
「元王子」となったフィリップには新たに「殿下」の敬称が与えられ、国王であり義理父となったジョージ6世よりエディンバラ公爵の名が与えられました。1950年には海軍少佐に昇進し、スループ艦の艦長となりその後中佐に上り詰めるのですが、妻となったエリザベス2世の女王即位により出世の道は多々れたのでした。もし即位がなければ、「海軍提督」になる器であったと惜しまれる声もありました。妻をたてなければならないことに苛立ち度々ぶつかったりスキャンダルを起こすこともありましたが、その人生の長くを妻エリザベスに寄り添い過ごすことになったのでした。今までを振り返り、問題を乗り越えて夫婦になっていくのだとエリザベス女王はのちに語ったと言われています。
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あとがきにかえて
エリザベス女王の最愛であったフィリップ王配、ふたりの結婚生活は73年にもわたりました。彼の人生での役割は、女王の一歩後ろを歩くことでしたが、それでも急速に変化する時代の中、彼ならではの存在感を発揮し役割を切り開いてきた男性でもありました。
バッキンガム宮殿は4月9日、公爵の死を確認しました。短い声明によると、ウィンザー城で亡くなったそうです。1921年に生まれたフィリップ王配、大きな時代な変わり目を見届け女王とともに英国を現代へ導いた男性。戦前を知り、大英帝国の名残りを体感している女王夫妻が生きていること自体がとても尊いことだったわけですが、ギリシャの元王族が亡くなったとして、またひとつ時代が幕を閉じたのかもしれません。健在のエリザベス女王とともに、その名は歴史へと刻まれ長く遠く語られ続けることでしょう。
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