頼りない夫王太子に業をにやし、長年の下積みの末ついにロシア女帝にまで上り詰めたエカチェリーナ2世。「名君」と呼ばれた彼女の治世には幾人もの愛人がおり、それは彼女の功績にも繋がる打算的なものでもありました。この記事では、ドイツから嫁いできた質素な田舎娘とされたエカチェリーナ2世の恋愛事情に切り込んでいきたいとおもいます。
ロシア女帝、エカチェリーナ2世
母女帝エリザベータからも、嫁いできた妻からも無能認定を受けたピョートル3世。彼は帝位につくもののその無能っぷりから、壮絶な潰し合いの末、嫁いできた賢妻に帝位を奪われてしまいます。そうしてロシア女帝となったのが、エカチェリーナ。嫁いで十数年息を潜めていたエカチェリーナが頭角を表したのは、夫を蹴落とし自分が女帝となってからのことです。
ドイツかぶれの皇帝よりも、異国から嫁いできた賢妃のほうがよっぽどマシだと世論をかっさらったエカチェリーナ2世は、恋多き女としても知られています。
頂点にたてば、愛人だって作り放題
絶対王政の時代、国王である夫が何人寵姫を持とうと周りは意見することができませんでした。とはいっても女性が権力を持つ場合には、必ずしも女王や女帝である必要はなく、アントワネットの母マリア・テレジアのように幼い国王を摂政として権威を奮う場合もあれば、名前ばかりの国王を手のひらで転がし治世を牛耳っている場合もありました。いつの時代にも、したたかな女性というのは存在したのです。
しかしエカチェリーナ2世は、『女帝』という頂点に上り詰めていたわけですから、幾人もの寵臣を堂々と持つことができました。それこそ誰を選ぼうと、何人持とうと自由だったのです。
エカチェリーナ2世の寵臣
愛人の数は20数名もおり、なかでも寵愛されていたのは彼女の右腕として(夫蹴落としの)クーデターに助力したグリゴリー・オルロフと、のちの愛人グリゴリー・ポチョムキンでした。
モスクワ大学を首席で卒業したポチョムキンは、軍事にも政治にも長けており、17年もの間彼女の寵愛を受けることになりました。しかし若きポチョムキンが女帝に思いを寄せていた間、エカチェリーナはオルロフに夢中であり、ポチョムキンには興味を示しませんでした。
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女帝が最も愛した、グリゴリー・ポチョムキン
女帝がポチョムキンに関心をもち、ドナウ河畔の戦場に出ていた彼を宮廷へと呼び寄せたのは彼が34歳のときのことでした。身長は180cmをゆうに越え、がっしりとした胸板に野生的な美青年だといわれた彼も、中年になり、身体は肥えて感染症のために片目も失っていました。
それでもポチョムキンの元来の魅力がなくなることはありませんでした。彼は依然として周囲のすべての女性を惹きつけていたのです。熱烈な手紙を書いて、戦地から首都へとポチョムキンを召喚したのは、1773年の終わりごろ、エカチェリーナ44歳のときでありました。
女帝からの恋文
ポチョムキンはただちに駆けつけましたが、宮廷ではまだヴァシーリチコフという別の男が公式寵臣の座にありました。「あの男がいる限り、僕がここにいることはできない」と主張するポチョムキンにエカチェリーナは折れて、ヴァシーリチコフに高価な贈り物を与えて追放。かくしてロシア女帝は、ポチョムキンを公式の愛人として宮廷におくことに成功したのでした。
エカチェリーナのポチョムキンへの情愛は激しいものでした。「グリーシャ」という愛称で呼び、彼がそばにいないときは夜中だろうと、会議のさながらだろうと恋文をしたためたといいます。
少しわがままな年下の恋人
ポチョムキンは気難しい男性で、さっきまで陽気だったかと思うとすぐに陰鬱に打ち沈むなど気分のむらが激しいところがありました。機嫌が悪い時にはエカチェリーナに対して、「自分の前に15人もの愛人がいたとはどういうことだ」と嫉妬して責め立てたそうです。
その度に女帝は「愛したのはわずか5人で、その中のひとりは意図に沿わなかった」と必死に言い訳したのでした。愛人がたくさんいたのは事実ですから、5人も15人も変わらないとは思うのですが。これという理由もないのに突如ポチョムキンが不機嫌になり、部屋に閉じこもってしまうこともしばしば。
そんな時エカチェリーナは彼に短い恋文をしたためて、どんなに愛しているかを説いて機嫌をとったのでした。夫に対して国をあげてクーデターをかけ吊し上げた女帝も、この10歳以上年下の「愛人男」にはすっかり骨抜きにされてしまったのです。
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最も愛された寵臣、ポチョムキンの出世
エカチェリーナはポチョムキンをまず伯爵にし、ついては公爵へ叙任。さらに軍法会議副議長など様々な名誉職を与え、さらには聖アンドレイ勲章までも授けてしまいました。さらにポチョムキンは自宅用に豪華絢爛な邸宅をもち、それ以外にもロシア皇室所有のすべての宮殿に広大な居室を与えられたのでした。
それも、すべてがエカチェリーナの自室と繋がっている部屋です。
ポチョムキンにとって、エカテリーナは運命の女性であり生涯の恋人でありました。彼もそれは実感していたのですが、次第に彼にも野心が芽生えてきます。
女帝の支配下にいるのではなく、広い世界で我が手で栄光を追い求めたいと。一方それはエカチェリーナも感じていることでした。「サンクト・ペテルブルグの宮廷にいては息がつまってしまう」と訴えるポチョムキンのために、エカチェリーナは1776年彼を南部州総督に任命します。
飛ぶ鳥を落とす如くの活躍
彼は精力的に黒海艦隊を建造し、トルコ軍を壊滅。そして7年後、ついにトルコの属州だった黒海沿岸のクリミア半島を占領することに成功します。エカチェリーナの帝国にイスラム領土が加わり、すでに航海権を得ていたカスピ海に加え、黒海をも支配するようになったのです。
愛に溺れたといえど、感情をおいて必要なポジションに彼を置くあたり、エカチェリーナは女君主としての才があったのかもしれません。
したたかな男と女
ポチョムキンは砂漠の中に街を造り道路をひき、港を掘り造船所を建設し、工場や大学を設けました。その影響はすさまじく、彼の作った新しい町をめざして貧苦にあえぐヨーロッパの農民数十万人が集まり、彼の支配地域の人口はあっという間に20数万からその4倍にも膨れ上がったのです。
ちなみにポチョムキンはみずからのハーレムも所有しましたが、エカチェリーナが嫉妬することはなく、彼女自身すでに彼に代わる25歳の寵臣を側においていました。しかし彼女が真に愛したのはポチョムキンであり、彼の方もそれを信じて疑わなかったといいます。さらには、次々と代わるエカチェリーナの愛人を調達するのも、いつの日かポチョムキンの役目になっていたのです。
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ポチョムキンの最盛期
彼にとって大切なのは、エカチェリーナとの程よい力関係を維持し続けること。それには程よく近づきすぎない愛人が適正で、彼女が休みなく若い美男に目を移している方が好都合だったのです。これは中世のヴェルサイユを牛耳ったルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の手口にも似たものですね。
1787年、ポムチョキンは自らの権勢を人々に印象づけるため、前代未聞の一大興行を催しました。女帝を9ヶ月の旅に招き、新たに獲得した南部の州をじきじきに視察してもらおうと考えたのです。さらには全ヨーロッパに彼の功績を知らしめるため、オーストリア、イギリス、フランスなど各国の外交官らを女帝に同行させました。
近づく栄光の終わり
1791年、ポチョムキンはトルコに対する勝利を祝う名目で、クリミア宮でこれ以上ないスケールの舞踏会を催しました。何千本もの蝋燭が照らす中、エカチェリーナ女帝が到着すると300もの楽士が勝利の楽曲を奏で、3000人の招待客が平伏して迎えたのです。
女帝が彼の隣に着席し、東西の珍味が山積みになる前でふたりの栄光を称えて乾杯が繰り返され、室内は照明にもちいられた14万のカンテラと2万本の蝋燭のため大変な暑さになったといいます。しかし皮肉にもこれが、ポチョムキンの栄光のピークでありました。
大切な右腕を失った女帝
再開した対トルコ戦争の苦労がたたり、ポチョムキンは意気消沈して目に見えて衰えていきました。真夏の猛暑の中、彼はトルコとの和平交渉のためサンクト・ペテルブルグを出発しましたが、ヤーシに到着後マラリアを発症し肝疾患と肺炎に襲われました。
医師の忠告をも無視して先へ進もうとしましたが、最終的に病の中に倒れてしまいました。知らせを受け、哀しみに叫んだのはもちろんロシア女帝のエカチェリーナでありました。彼女はこう悲しみにつぶやいたと言います。「これからは、この国のすべてが私にのしかかってくるのですね」と…
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あとがきにかえて
異常に多い愛人の数はおいておいても、エカチェリーナはとても聡明で、「ロマノフ王朝における、最後にして最大の女帝」と呼ばれるほど賢明な君主でありました。広大な領土拡大はさることながら、ロシアの財源を大幅に増やしましたし、ロシアの教育システムを改善することを目的とし数多くの本やパンフレット、教材を作成しました。芸術の擁護者でもありサンクトペテルブルクの冬の宮殿には、世界で最も印象的な芸術コレクションをつくったのも彼女です。
エカチェリーナの前夫であり、退位を余儀なくされたピョートル3世はあまりに頼りのない男性でありました。更には自分に陽が当たらないことに嫉妬して、田舎から嫁いできたエカチェリーナを馬鹿にし愛人をも作ったロクでもない男だったのです。そういった意味でも、エカチェリーナは強く逞しい男性を求めていたのかもしれません。ポチョムキンは、エカチェリーナの右腕でありながら、お互いに愛情を持ち合う良きパートナーであったのでしょう。彼女が「名君主」と呼ばれたのも、こういった情事の末にできた絆があったからかもしれません。
田舎から嫁いできたエカチェリーナが頂点に上り詰めるまでのお話はこちら (【エカチェリーナ2世】夫から君主の座を奪い取ったドイツ女性)にまとめております。
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参考文献
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