スペインハプスブルク家には、血族結婚や植民地支配をはじめ様々な云われがあります。有名なのはその血の濃さ故に様々な弊害を背負い、王位を守るためだけに放浪させられたカルロス2世でしょう。しかしそれ以外にも、王家の闇は様々なところに潜んでいました。
その一つが、宮廷画家ベラスケスによって描かれた絵の中に隠れています。この記事では、宮廷に捧げられた小人症の者たち、「慰み者」の存在と歴史についてふれていきたいとおもいます。
奴隷マーケットにおける希少者
天才画家ベラスケスによって描かれた小人症の男性。中世において、彼らは宮廷の人々の中で、王や王妃の仲間に贈り物として届けられました。宮廷の小人たちは、公の場や儀式の席で王や女王のすぐ隣に『特別な地位』を享受していました。とても小さい彼らを置くと隣にいる国王ははるかに大きく見え、視覚的に彼の強力な地位を高めることができたのです。
宮廷人を楽しめせる役割を担っていた小人症の人々。奴隷よりはるかに良い扱いをうけており、ハプスブルク家からフランスのルイ14世に嫁いだ妃マリー・テレーズも「ナボという小人」を常に近くにおき可愛がっていたそうです。
宮廷人に好まれた小人症の者々
とくにスペインハプスブルク家は『小人症の者たち』を重宝し、16世紀から17世紀の間に多くの者が宮廷に集められました。皮肉ながら、その容姿と希少さから小人症の者は希少とされ、とくに地位の高い者が所有する傾向があったのです。
奴隷マーケットにおいても、小人症の者たちは比較的良い扱いを受けた金で取引されました。彼らは自分たちの召使いたちと特権的な地位を持ち、王室の子供たちの遊び友達として行動していたのでした。当時のスペイン宮廷画家が描いた絵には、『小人症の人々』が自然に映り込んでいます。つまり彼らは常に宮廷人の側におり、良い言い方をするならば、家族のような近しい存在でもあったのです。
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フェリペ4世が重用した『マリア・バルボラ』
ヨーロッパ宮廷の小人の中で最も有名なのは、スペインのフィリップ4世の元にいた『マリア・バルボラ』でしょう。彼女は1651年から1700年の間、女王の公式小人『エナナ・デ・ラ・レイナ』として雇われていました。
もちろん小人は彼女だけではなく、スペイン宮廷には何人もの小人が雇われていました。彼らは自分たちの召使いたちと特権的な地位を持ち、王室の子供たちの遊び友達として行動していたのでした。小人症の人々は、侮辱的な方法で描かれることが多くありました。
しかしベラスケスの代表画『ラス・メニーラス』にうつるマリア・バルボラは、威厳のある姿勢で思慮深く制御された表情で王女の横に直立しています。これには宮廷画家の偏見のない、見方が反映されているのではないかといわれています。
慰み者とよばれて
陽の沈まぬ国といわれたスペインハプスブルク家は次第に陰々滅々となります。フランスからきた王妃は病気で亡くなってしまうし、唯一の男児バルタサール・カルロス王太子も16歳で病死。後継を失った王はまたもや叔父姪結婚を繰り返しますが、血が濃すぎるために赤子は次々と早逝、何かに呪われているかのような地獄のような日々が宮廷では続いていました。
医者や祈祷師や占星術師ばかりが増え、祈りの呟きが宮廷中を満たしていったのです。そんな中「不完全で醜く愚かで言動の滑稽な」彼らをそばに置くことは、「自らの完全で美しく懸命で節度と慈悲ある態度」を確認できる瞬間でありました。だからこそ彼らは「慰み者」といわれ、宮廷のあちこちで重用されたのです。
『宮廷ドワーフ』の終わり
スペイン宮廷の小人集めが終わったのは、1700年のことでした。スペインの新王フェリペ5世はスペイン王室を刷新しました。彼は時代遅れだとみなしたいくつかの役職を廃止したのですが、その頃には道化師や愚か者の不雇も含まれていました。『宮廷ドワーフ』などのヨーロッパの他の地域ではすでに時代遅れだったのです。
ちなみに宮廷ドワーフが廃止となった後、『マリア・バルボラ』は母国オーストリアへと帰っていったのでした。
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まとめ
苛烈な時代に『慰み者』といわれ、差別され笑われ奴隷として生きた小人症の人々。
小人症の道化を抱えていたのはスペインだけではありませんでした。しかしあくまで彼らは脇役であり、貴人の引き立て役でしかなかったのです。王侯貴族が矮人と呼ばれた彼らを傍に侍らせた歴史は紀元前に始まったと云われています。
古代エジプトは、『小人は神聖な関係を持つ人々』と見なしていたので、小人を所有することは人に高い社会的地位を与えることを意味しました。それはギリシャ、ローマに中国の始皇帝も同じだったといいます。ではなぜスペインがこれほどまでに「宮廷ドワーフ」の象徴となっているかと、それは現実をありのままに描き出した宮廷画家ベラスケスの存在があったからでしょう。
(参考: ベラスケス| スペインハプスブルク家の悲劇を記録した宮廷画家)
フェリペ4世の代のお気に入りであった宮廷画家ベラスケス。栄光も闇もありありと映しとることが出来た天才画家のおかげで、たしかにスペインハプスブルク家の名前は、断絶した後も長く後世へと引き継がれることになったのかもしれません。
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