怪僧ラスプーチン、ロシア宮廷に対する彼の影響力は相当なものでした。アレクサンドラ皇后が精神的に彼に寄りかかっていたのに加え、とにかく当時の人々はラスプーチンのことを信じ切っていたのです。この記事では、宮廷に取り入り、ロマノフ王朝を滅亡に導いたと呼ばれる怪僧ラスプーチンをご紹介します。
- ゴロツキながらも不思議な力を持ったグリゴリー・ラスプーチン
- 皇帝一家の不安に取り入り政治へも口出し、影響力を増大させていった
- 暗殺されるもまもなくして皇帝夫妻も惨殺、王朝は滅亡に至った
ラスプーチンとは
ラスプーチンは、ロマノフ王朝滅亡の原因を作ったと呼ばれる男です。彼は1860年1月10日、シベリアのポクロフスコエ村に生まれました。ごろつきのような、手に負えない若者に育ったラスプーチンは、やがてロシア正教会の風変わりで型破りな教派スコプツィに魅了されるようになります。
「神に近づくための最善の方法は、罪を犯し告白して悔い改めること」だという教えは、若いグリゴリーには好都合なものでした。彼はその集団の中で札付きの罪人となり、宗教上の最善を尽くして、今度は教導者として地元ではたちまち評判の人物となったのです。
サンクトペテルブルグへ
ラスプーチンの噂は、全国へと広がっていきました。
ラスプーチンは聖地への巡礼の旅を終え、1902年にはロシア帝国の身分の高い聖職者への熱烈な推薦状を携えて、サンクトペテルブルグを訪れました。彼は以前ほど放縦でもなく、むしろ演説に長け、癒しの力という不思議な力までも持ち合わせていました。しかし彼の評判を聞いた正教会の組織はところが関わることを避けているようでした。
低調のロシア帝国
当時のヨーロッパは、第一次世界大戦へと至る混乱状態にさしかかっており、大半の国々は再軍備と何らかの戦争への備えに忙殺されていました。オーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国など多くの国々は内紛で分裂状態にあり、このような戦いに加わる気はありませんでした。偉大なロシア帝国は不調をきたしていたのです。
皇帝アレクサンドル3世が1894年に急死、本人を含め宮廷内の誰もが予想しなかったことでしたが、後継者である息子ニコライ2世にとっては特に晴天の霹靂ともいえる出来事でした。
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ニコライ2世
当時26歳をむかえていた彼は、国政についてとくに何を教わっているでもなく、過保護な母親の元で悠々と育ってきていたのです。自立したことといえば、両親の意に沿わない王女を結婚相手として見つけてきたことだけでした。
最終的に両親の許しを得て、ニコライ2世とアレクサンドラは結婚に至ります。「ロマノフ王朝の世継ぎ」を切望していた両親は、「息子に他の結婚相手は見つからないだろう」と考えふたりの結婚を認めたのですが、両親の懸念はアレクサンドラが持っているだろう遺伝子にありました。ヨーロッパの王女たちとの近親結婚の結果、恐ろしい病気が王家の血筋に持ち込まれていたのです。
皇后アレクサンドラと愛息子
ロシア皇后となったのは、ヘッセンの王女アレクサンドラ(アリックス)でした。
アリックスは、ヴィクトリア女王のお気に入りの孫娘のひとりであり、ニコライの”みいとこ”でもありました。イギリスとの間に王家のつながりができるのは喜ばしいことですが、彼女の陰気な性格とドイツ国籍は彼女に生涯不利に働くことになりました。
待ち焦がれた世継ぎこと息子アレクセイが生まれたのは、1904年7月30日のことでした。まさにロマノフ王朝、希望の星でありましたが、ここでニコライの両親の不安が的中します。
まもなくして皇太子アレクセイに、血友病の兆候があらわれはじめたのです。この病気はビクトリア女王の血筋によるもので、医師たちからは「治癒の見込みはなく死に至る可能性が高い」とさえ言われるものでした。
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皇太子の病
(参考:【ヴィクトリア女王と血友病】家系図でみる、恐怖の王室病)
血友病とは、血が止まりにくくなる病気のことで、少しの内出血でも身体に深刻なダメージをもたらします。英国王室でみられたように、血友病は男児がうまれたときに発症するのが一般的でした。動揺した皇后の不安につけ入るようにして現れたのが、ラスプーチンでありました。皇后の親友のひとりであるアンナ・ヴィルボヴァは、聖者とされたラスプーチンの信望者で、列車事故でおった酷い怪我を治してくれたとして彼を信じ切っていたのです。
頼みとなったのは
彼女がラスプーチンに、ひそかに「アレクセイを助けるよう」進言したところから、ラスプーチンの宮廷での台頭が始まります。神に使える祈祷治療師に以来するというのは、当時とくに突飛な考えではありませんでした。
ニコライの父も、医師の診断を受けた時には有名な祈祷治療しを呼んだことがありましたし、ラスプーチンは風変わりではありました不思議な効力を持っていたのです。そして、たしかにその幼児の症状を和らげることができたのです。
ラスプーチンの政治侵食
戦争が勃発したとき、ロシア陸軍は絶望なほどの準備不足でした。皇帝は、ラスプーチンの祝福をうけて、自らのいとこであるニコライ大公を陸軍の指揮官に任命しますが、その後まもなくして「皇帝自らが軍を率いて戦わなければ国を救えない」との幻影を見ることになります。
そこで皇帝は、足を引きずるようにして前線へ赴き、政治はアレクサンドラ皇后の手に委ねたのでした。皇后はラスプーチンの確固たる信者ですから、実質的にラスプーチンが権限をもったのと同じことでした。するとこの時を待っていたかのように、有力な役人は解任され、新しい信奉者が後釜へとすわったのでした。
ユスポフ公による暗殺
皇帝夫妻がラスプーチンに傾倒していく一方、そんな夫妻を見かね、堪忍袋の緒を切らす人々が宮廷内に出てきました。
「何としてもあいつを追い出さなければ」、1916年12月、皇帝の親戚であったユスポフ公はラスプーチンを自らの美人妻に会わせるという名目で自宅へと招き毒を盛ります。さらに陰謀者たちはラスプーチンを撃ち、縛り上げ毛布でくるみネバ川へと投げ捨てました。ラスプーチンは遺体となって発見されたのは、それから3日後のことでした。
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検死
同日夕方に検死が行われ、死因は、頭部を狙撃されたためと結論付けられました。ラスプーチンの死因については、多くのデマが出回りました。
- 肺に水が入っていたため死因は溺死であり、川に投げ込まれた時点で生きていた
- 自力で岸辺に辿り着き、十字を切ろうとして死んだ
しかし、実際にはラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで毒物は検出されなかったといいます。検死によると遺体の傷の大半は死後につけられたものであり、右目は殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けていたそうです。
最期の予言
生前ラスプーチンは、「自分が死ねば、皇帝とその家族は没落する」と予言めいた言葉を残していました。ニコライ2世の退位は、ラスプーチンの死からわずか3ヶ月後のこと。しかしロマノフ王朝の終焉が彼の死に由来するかというと疑問が残ります。
ロシアで政治的混乱が深まるにつれ、ロシア宮廷におけるラスプーチンの影響力は増大していきました。皇帝は彼を「我らが友」と呼び、事あるごとに助言を求めるようになっていったのです。それに比例するように、ラスプーチンに心酔する皇帝夫妻への宮廷内の不満は募っていきました。皇帝夫妻がその反動を受けるのは必然だったのかもしれません。
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あとがきにかえて
ニコライ皇帝一家が惨殺されたのは、ラスプーチンの死から間もなくのことでした。
結果的にラスプーチンは皇帝の親戚であるユスポフ公に殺され、ロマノフ王朝は終焉を迎えることになります。彼が破滅をもたらしたのか、否、少しずつ王家に積もっていた塵がついにはけないところまで積み重なっていたわけで、王朝の終焉は時間の問題だったのでしょうか。しかしラスプーチンがいなかったら、皇帝一家がこんなに酷い最期を迎えることもなかったのかもしれません。
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