2015年9月9日には、その在位期間は63年と216日となり、ヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最長在位の君主となったエリザベス女王。若くして世界大戦を経験し、戦後のゴタゴタを乗り越え世界の大転換期を見守り、ウィンストン・チャーチルや、マーガレット・サッチャーをはじめとする何人もの首相たちを見送ってきた、誇り高きイギリス女王。
普段はスキャンダルばかりに光が当てられるイギリス王室ですが、他の王家が時代の流れに逆らえず衰退していく中、現存する貴重な王家でもあります。この記事では、エリザベス女王に焦点をあて、イギリス王室とはどういうもので、近年どんな道をたどってきたのかを解説していきます。
エリザベス王女が「クイーン」となるまで
(娘エリザベスと父帝ジョージ6世)
父帝ジョージ6世が戴冠したのは、エリザベス王女が10歳の時のことでした。ジョージ6世には息子がいなかったため、その母であるメアリー・オブ・テックは孫娘エリザベスの帝王教育に情熱を傾けました。彼女は孫娘の即位を目にし、翌年87歳でこの世を去ったのでした。
第二次世界大戦が始まるとエリザベス王女は看護婦を志望しますが、父帝の許しは得られず、代わりに大型自動車の免許を取得しました。戦争が終わり父とともに南アフリカを訪問しているときに、彼女はケープ・タウンで21歳の誕生日を迎えます。病気がちであった父帝の代わりに外遊にも出かけるようになっていたエリザベス王女は、ラジオで「全生涯をイギリス連邦のために支える決意である」と表明し、多くの民の心を揺さぶったのでした。
フィリップ殿下との婚約発表
(参考:【エリザベス女王とフィリップ殿下】誰にでもわかるイギリス王室入門)
南アフリカの旅から戻って間もなく、エリザベス王女は元ギリシャの王族であるフィリップ・マウントバッテンとの婚約を発表しました。けして誓約結婚などではなく、13歳で出会った時から、フィリップにはほのかな恋心を抱いていました。先日99歳で亡くなったフィリップ殿下ですが、当時からすでに長身で端正な面立ちの貴公子でした。
(参考:亡命を迫られたプリンス【エリザベス女王の夫フィリップ王配の波乱万丈な人生】)
1921年ギリシャ北西海岸沖のコルフ島で生まれたフィリップ (のちに殿下となる) 、父アンドリューはギリシャ王子であり、母アリスはヴィクトリア女王のひ孫にあたる血筋の持ち主でした。フィリップはイギリス海軍に身を投じ、戦後、ギリシャ・デンマーク王子の称号を放棄し、母方の性マウントバッテンを名乗りイギリスへと帰化していました。
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エリザベス女王の元に生まれた、4人の子供たち
(参考:チャールズ皇太子以外にもいた 【エリザベス女王の子供4人の現在】)
1947年11月、エリザベスとフィリップはウェストミンスター寺院で結婚しました。1948年に第一子であるチャールズ皇太子、1950年にはアン王女が、その後、アンドリュー王子とエドワード王子が生まれます。1952年、エリザベス2世は南アフリカ訪問の旅途中、ケニヤで父帝ジョージ6世が亡くなったことを知らされました。
その日から今日まで、女王は時代の代わり目でありながら、20世紀の君主に期待される責任を沈着冷静に実行してきました。クリスマスメッセージをはじめ、定期的に国民との接触をはかりました。女王の姿勢は威厳を失わず、しかし親しみの持てるものではありました。
チャールズ皇太子とダイアナ妃の悲劇
(参考:【ダイアナ妃はなぜ亡くなったのか】今更聞けないイギリス王室)
順風満帆に見えたイギリス王室が暗雲に包まれるのは、1981年にチャールズ皇太子とレディ・ダイアナがセント・ポール大聖堂で結婚してからのことです。皇太子が生粋のイギリス女性を妃に迎えるのは、ヘンリー4世がヘレフォード伯爵の娘メアリー・ド・ブーンと結婚して以来のことこでした。国民は熱狂し、この結婚を国をあげて歓迎しました。しかしチャールズは結婚してからも、年上の人妻であったカミラ夫人との関係を続け、ダイアナ妃は夫の不貞に報復するかのように男性遍歴を重ね、また内情をインタビューという形で国中に暴露しました。
結局皇太子夫妻は、1996年に離婚に至り、ダイアナ妃は翌年の8月31日、エジプト人の大富豪の息子どディ・アルファイドと一緒に乗っていた車で大事故にあい、パリにて36歳の短い生涯を閉じたのでした。
スキャンダルに見舞われたイギリス王室
(参考:【アン王女のスキャンダル 】 ボディーガードとの浮気疑惑とその後の経緯)
最も、イギリス王室でスキャンダルを起こしたのは長男チャールズ皇太子だけではありませんでした。長女のアン王女はボディガードと浮気をし結果的に離婚に至りましたし、3番目のアンドリュー王子も離婚したことで、女王の子育てが問題視されたこともありました。
エリザベス女王の妹マーガレット王女、チャールズ皇太子をはじめイギリス王室では何度か離婚が繰り返されているわけですが、王族とはいえ人間ですからあわない関係もあって然りなのでしょう。
6人も妃を取っ替え引っ替えしたヘンリー8世の離婚問題から何百年と離婚は許されなかったイギリス王室ですが、スキャンダルが続いたといえど、少しだけ自由さがみえるようになったのもこの時代の特徴かもしれません。
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あとがきにかえて
女王の母、エリザベス皇太后は娘の治世を全力で支え、2002年3月30日、101歳と7ヶ月の長寿をまっとうして亡くなりました。2002年6月3日、ロンドンでエリザベス女王の即位50周年を祝う行事が行われた時は、100万人ものイギリス国民がロンドンに押し寄せ女王の長寿を祝しました。また、2015年9月9日には、エリザベス女王の在位期間は63年と216日となり、ヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最長在位の君主となりました。
(引用元:【ザ・クラウン シーズン4がより楽しくなる相関図】とイギリス王室の家系図)
ダイアナ妃が残したウィリアム王子とヘンリー王子にはこれまでのどの王族より、イギリス人の血が濃く流れています。ダイアナ妃が短い生涯を捧げた事前活動とともに、ふたりの王子は妃を迎え、両方にまた男の子が誕生しました。外国から妃と王を迎え、親族にあたる外国の王家が存亡の危機に瀕しても手助けはせず、冷酷と非難されながらもしたたかに存続をはかってきたイギリス王室。時代の流れにそぐわないと揶揄されながらも、ここまで権威を放ちつづけているのは、ひとえにエリザベス女王の存在があってのことのなのかもしれません。
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