「”ロシア” は謎に包まれた謎めいた謎だ」といったのは、イギリス元首相のウィンストン・チャーチル。ロシア帝国は歴史上3番目の大きさで、世界に大きな影響力を持ち、一握りの一族により支配されていました。帝国についての恐ろしい特に興味深い事実をいくつかご紹介します。
ロシア帝国と君主についての、6つの逸話
① モスクワ大公国のはじまり
紀元9世紀頃から、ロシアの民族はキエフかノヴゴロドを拠点とする大公によって統治されていました。しかし、15世紀になって、ロシアの国家間の争いから新たな勢力圏が生まれました。それが”モスクワ大公国“です。
1547年には、モスクワのイワン大公がロシア皇帝を宣言しました。彼は後にイヴァン雷帝 (Ivan the Terrible)という異称で知られることになりますが―しかし、“Terrible”は実際には“悪”というより“畏敬の念”に近いものを意味していました。
② 息子をも殺したイワン雷帝
(参考:【ロマノフ王朝の始まり】玉座に翻弄された者たちの皮肉な運命)
ロシア帝国は、権力を維持するために残酷な暴力行為にしばしば依存し行使してきました。特にイワン雷帝は顕著であり、巨大なフライパンで敵を生きたまま焼くようなことも厭いませんでした。また、囚人が網にかけられたり、熱した鉄で焼かれたりした際の処罰を直接監督したことでも知られています。
『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』(イリヤ・レーピン画)
恐怖の雷帝っぷりを発揮するイワン、気に入らないことがあると、王杖でそばにいるものを打ち付けたといいます。しかし運命は残酷な結末を用意していました。ある日息子のイワンの妃の服装に腹を立てた雷帝は、妃に杖をふるい、彼女の子供を流産させてしまったのです。
賢明で高い知性と教養を持ち合わせた息子イワンもさすがに怒り、父のいる部屋へ乗り込みます。そこで父は逆上、暴れまわり怒りが冷めたとき、彼の前には虫の息のイワンが倒れていたのでした。
③ 血だらけの王位争い、皇女ソフィアとピョートル大帝
(ピョートル大帝の肖像画 その姿は見る者を圧倒させたという)
皇帝は『絶対的な権力』を持っていましたが、ロシア帝国の行方をめぐって様々な派閥が権力を競い、醜い争いがしばしば宮廷内で繰り広げられていました。かの有名なピョートル大帝も少年時代には、義理姉 (皇女)ソフィアと骨肉の争いにを繰り広げています。
(参考:皇女ソフィア・アレクセイエヴナ【ロシアに存在した鉄の女君主】)
こちらはレーピンが描いた、捕らえられたソフィア。修道院へ幽閉されてから9年になりますが、恰幅よく堂々たる王者の風格でこちらを睨みつける彼女からは猛烈な怒りを感じます。窓に見えるのは、義理弟ピョートルが嫌がらせの見せしめに殺したソフィアの仲間たちの死体です。
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④ おもちゃの兵隊と遊ぶ、間抜けな皇帝
(参考:【不運な男 ピョートル3世】妃に玉座を奪われたロシア皇帝)
ドイツ人でありながら、ロシア皇帝となったピョートル3世。
彼の妻キャサリンが夫に心底愛想をつかして、「自分の方がふさわしい」として王位を主張するとピョートル3世の軍はたちまち劣勢となりもったのはわずか6カ月。ピョートル3世はロシア語が話せなかっただけでなく、未熟な大人でもあり、おもちゃの兵隊とよくゲームをしていました。
⑤ 黄金時代を築いた大女帝、エカチェリーナ
(参考:ロシア女帝の裏の顔【数多くの廷臣を愛したエカチェリーナ2世】)
母女帝エリザベータからも、嫁いできた妻からも無能認定を受けたピョートル3世。彼は帝位につくもののその無能っぷりから、壮絶な潰し合いの末、嫁いできた賢妻に帝位を奪われてしまいます。そうしてロシア女帝となったのが、エカチェリーナ。嫁いで十数年息を潜めていたエカチェリーナが頭角を表したのは、夫を蹴落とし自分が女帝となってからのことです。
エカテリーナ2世はロシア史上最大の統治者の1人とされており、ロシア史上最長の女性指導者でした。その影響力は非常に大きく、彼女が統治していた時代はキャサリン時代と呼ばれ、ロシア帝国の黄金時代とも呼ばれています。
⑥ ロマノフ王朝、最後の皇太子アレクセイ
(参考:【血友病と皇太子アレクセイ】ロマノフ王朝を滅亡させた王室病)
ロシア帝国最後の継承者であるアレクセイ・ロマノフは、5人兄弟の末っ子であり、また唯一の王位継承者でありました。
1904年、ニコライ2世の妻でありロシアの皇后であるアレクサンドラ・フョードロヴナが息子を出産したとき、宮廷は喜びと祝福に包まれました。断絶間近だった王朝に奇跡的に男の子が生まれたのです。アレクサンドラ皇后は1895年から1901年の間に4人の女児を出産していましたが、末にうまれた男児アレクセイが『王位継承者』となりました。
しかし皇太子は血友病を患っていることが間も無くしてあきらかになります。
この先天性疾患、血友病は血が止まりにくくなることが特徴であり、小さな傷でさえ長きにわたり内出血をもたらし、ケガは致命的なダメージとなります。皇太子を案じた皇后アレクサンドラは、次第に怪しい祈祷師ラスプーチンに心酔していきます。
「皇帝皇后は彼に操られている」と風刺画も出周り、宮廷内でもニコライ2世への忠誠心はゆらいでいきました。1916年12月30日、ラスプーチンは、彼の存在をよく思わないユスポフ侯爵によって殺害されてしまいます。そして18か月後の1918年7月、ラスプーチンが予言したとおりに、皇帝一家も無残なまでに惨殺されてしまいました。
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あとがきにかえて
玉座のためならたとえ兄弟であっても殺し合うことを厭わない、反対派は静かに消し去るというのは、ロシア歴史の特徴かもしれません。もちろん他国でも似たようなことはあるわけですが、ロシアではそれが顕著なように思えます。
そして皇女ソフィアとピョートル大帝の争いにみられたように、敵と見做したからには容赦なく、残虐非道なやり方で命を奪い取るのもまた。ピョートル大帝がヨーロッパ遠征に赴き、様々な文化を自国へ持ち帰り、またロココに憧れた女帝エカチェリーナ宮廷にロココ風を持ち込みました。
300年以上続いた”ロマノフ王朝”もまた、断絶してもなおロシアらしさの象徴として今だに研究され続けています。謎めいた国ロシア、ひとつひとつの逸話を読み解いていくと、ドロドロしつつもおもしろい人間ドラマが数々垣間見られる、それもまたひとつ魅力なのかもしれません。
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