感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家であるフィンセント・ファン・ゴッホ。20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした彼の画は、彼の人生とともに色を変えタッチを変え成長してきました。最初は暗い色で覆われていたキャンパスも、画家たちとの出会いやアルルの自然に影響をうけ、次第に明るくなっていきます。
この記事では、ゴッホが各々の時代に描いた絵画を、彼の生涯をなぞりながら解説していきます。
ゴッホの生い立ち
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダで生まれました。日本では江戸時代がちょうど終わる頃でしょうか、彼の父親は牧師で4年後には弟テオが生まれました。伯父を頼りに、画商の店につとめはじめたのは少年時代のこと。その後、ゴッホは牧師になろうとしたこともありましたが、結局望みは叶わず、ゴッホは画家への道を進んでいくこととなります。
といっても特定の師がいたわけではなく、その殆どが独学でありました。ゴッホはオランダ各地を転々としたあと、芸術の都パリへとうつります。パリではまだ新しかった印象の画家たち、そしてその新鮮な色彩に出会い、暗かったゴッホの画はどんどん明るくなっていきます。
パリから移り住んだアルルで、ゴッホが描いた画たち
しかしやがて大都会が息苦しくなってきたゴッホはパリを去り、明るい光のあたる土地をもとめて南フランスのアルルへとうつりました。1888年の2月、ゴッホはアルルにつきました。その日、あたり一面には大雪が積もっていたそうです。しかし新しく見る土地は何もかも新鮮で、彼は雪の中、陽の光に包まれ幸せな気持ちになりました。ゴッホは当時パリで画商の仕事をしていた弟テオにその気持ちを伝えています。
「ーまるで日本人が描く冬景色のようだ」
ちょうどパリでは日本趣味が流行しており、ゴッホも少なからず浮世絵の影響を受けていたのです。アルルの春がやってきた時も、ゴッホはテオへ手紙をおくりました。ゴッホにとってテオは、心の中を打ち明けることのできる唯一の相手だったのです。
アルルにきて描いた『ラングロワ橋』
(ラングロワ橋 1888年 クレラー=ミュラ美術館所蔵)
「今日は小さな馬車がはね橋を渡っている絵を描いた。それは青空を背景にしてくっきりと姿を見せていたよ」
ここに流れている川は運河で、”はね橋”というのは、大きな船が通る時に、橋が中央でわかれて両側に跳ね上がる仕掛けとなっています。アルルに来てゴッホはその独特な形に興味をもったのでした。
橋の上から向こうの景色がのぞいており、これは日本の浮世絵の図柄からヒントを得たのだといわれています。ゴッホはパリで知った浮世絵を通してはるかに遠いに本という国へ強い憧れを感じていたのでした。
土手にはオレンジ色、空や水には青色、橋の影になった部分も青色ですね。これは印象派の画家たちから学んだことで、青とそれにコントラストをつける黄色、このふたつは”ゴッホの色”です。
(ゴッホ画の『タンギー爺さん』にも青と黄色が使われている、また背景には浮世絵らしき女性)
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夜の光を描いた『夜のカフェ・テラス』
(夜のカフェ・テラス 1888年 クレラー=ミュラー美術館)
はね橋の絵が昼の光を描いたものだとしたら、こちらは夜の光を描いたものでしょう。
カフェテラスの側面に取り付けられた街灯の光が、鋪道に敷き詰められた石に反映してそれをさまざまな色へと染め分けています。きらめく鋪道は右の奥へとのびてゆき、そこにはかすかな灯りのともった黒い建物たち。さらにその上には、星々のまたたく深い青い夜空が広がっています。星々は、まるで天に浮かぶ花のように浮かんでいます。これがアルルの街でゴッホが発見した新しい光でした。
ゴッホは手元が暗くならないようにと帽子にローソクをたてて、この作品を描いたといわれています。『夜のカフェ・テラス』にも、青と黄色のみごとなコントラストが見られます。
お気に入りだった『黄色い家』『ファンゴッホの寝室』
(『黄色い家』1888年9月 油彩「アルルのゴッホの家」と記載されていることがある ゴッホ美術館所蔵。)
アルルで、ゴッホは腰を落ち着ける場所を探しました。
そして、彼は夜の景色を描いたカフェ・テラスのすぐそばにある「黄色い家」に部屋を借りることにしたのです。家は日当たりもよく、外側は黄色いペンキで塗られていました。こちらは有名な『ファンゴッホの寝室』ですね。これは仕事を終えたゴッホがささやかな休息を撮るための部屋で、絵を描くための部屋は別にありました。
(『ファンゴッホの寝室』(第3バージョン)、1889年 オルセー美術館所蔵)
質素な部屋で、置いてあるのはがっしりした木のベッドの他、家具といっても椅子がふたつと洗面具を置くテーブルだけ。わずかも衣服な壁にかけたきりですが、それでも彼には十分だったのでしょう。早速自分の絵を壁に飾り、「いつかこの黄色い家に仲間の画家たちを呼び寄せて、皆で絵を描いて暮らしたい」、そんな大きな夢がいっぱいに詰まった部屋でした。
ゴッホの仕事ははかどり、彼は描いた絵をパリにいた弟テオにおくり、その変わりに絵の具や生活費を送ってもらっていました。実際のところゴッホの絵は売れておらず、たまっていくばかりでしたが、それでもテオは兄の才能を信じ続けていたのでした。
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ゴーギャンとの出会いと『ひまわり』
(3番目に描かれた『ひまわり』)
ひまわりは真夏の太陽にむかって咲く花です。
ゴッホはパリでもひまわりを描いていました。そんな『ひまわり』には、特別な意味がこめられています。黄色い家の部屋を整えると、ゴッホはパリにいた頃に知り合った画家ゴーギャンに、アルルでともに暮らしながら絵を描こうと呼びかけます。
夏のあいだに、ゴッホは何枚ものひまわりを描きました。新しい感覚で個性的な絵を描いていく先輩ゴーギャンをゴッホは尊敬しており、たくさんの絵を部屋の壁いっぱいに飾ってゴーギャンを迎えようとしていたのです。
(ポール・ゴーギャンの『自画像(レ・ミゼラブル)』)
しかしゴーギャンはなかなかやってきませんでした。夏が終わり、秋のはじめてになっても、まだゴーギャンは姿を表しませんでした。待ちに待ったゴーギャンがアルルに着いたのは10月末のこと。早速ふたりは『黄色い家』で共同生活をはじめ、夢がかなったゴッホは制作にいっそう熱がはいりました。
ぶつかりあう、ふたつの才能
(自画像(包帯をしてパイプをくわえた自画像) 1889年1月 アルル 油彩、キャンバス)
しかし、性格も、絵に対する考え方も、ふたりはまるで違っていました。
ふたつの才能は、まもなくして激しくぶつかり合うことになります。
ゴーギャンは、ゴッホに負けないくらい気性の激しい画家でした。それに彼はゴッホほどアルルの土地に魅力を感じていませんでした。そういった事情も相まって、ふたりの間の溝はどんどん深まっていきます。
ゴーギャンが自分から離れていくのを感じて、ゴッホは焦りました。ふたりの間には激しいやりとりがあり、これで夢も終わるのだろうかとゴッホは自分を責めるようになりました。感情がおあさえきれないところまで高まったゴッホは、刃物で自分の耳たぶを切り落としてしまいます。驚いたゴーギャンは、結局アルルを去ることになりました。たった2ヶ月の儚い夢でありました。
鏡を見て描いた『耳に包帯をした自画像』
(『耳に包帯をした自画像 1889年 コートルド美術研究所)
耳に怪我をおったゴッホは入院、知らせをきいたテオがパリから飛んできました。ゴッホは心の状態が落ち着くとゴッホは家に戻って鉛筆を手にします。そして描いたのがこの『耳に包帯をした自画像』でした。絵では右耳に包帯をしているようにみえますが、鏡に向かって描いているので実際に怪我をしたのは左耳でした。傷は癒えず、深い後悔とともにゴッホはテオに「原因はおそらく僕なのだ」と手紙で綴りました。
1889年5月、心の病に苦しむゴッホはアルルを去り、さほど遠くはないサン=レミの精神病院へうつりました。テオとその妻であるヨーは手紙でゴッホを励ましました。主治医の先生の勧めもあり、入院中でも具合の良い時には絵を描くことができました。絵を描くことは、ある種彼の救いだったのかもしれません。
サン=レミの精神病院で描いた『サン=ポール病院の庭』
(サン=ポール病院の庭 1889年11月 サン=レミ フォルクヴァンク美術館(ドイツ・エッセン))
ゴッホはあるときは病院の職員を、病院の建物を、そしてそこから見える風景も描きました。これは、夕暮れ時の病院の中庭です。手前にあるのは雷に打たれたあと切られた大木で、彼はこれを「誇り高き敗北者」と呼びました。もしかしたらこの木に自分自身を….. いや他の誰かを重ねていたのかもしれません。
ゴッホが想いを馳せた『アイリス』と『アーモンドの花』
(アイリス 1889年5月 サン=レミ ・センター(カリフォルニア州ロサンゼルス))
サン=レミの病院で、ゴッホはたびたびアイリスを描きました。それは中庭の花壇で、紫がかったあざやかな青い花を咲かせていたのです。ゴッホは自然のかたすみを切り取るように、青い花をクローズアップしています。アイリスは、ゴッホが心の安らぎを取り戻していく様子を示す、そんな花だったのかもしれません。
(花咲くアーモンドの木の枝 1890年2月 サン=レミ ファン・ゴッホ美術館)
サン=レミでは、ゴッホはもうひとつの花を描きました。青い空だけをバックにしたこの構図や描き方はどこか日本風にみえます。南フランスでは1月から2月にかけてアーモンドが白い花を咲かせ、ひとあし早く春のおとずれを告げるのです。アイリスが安らぎの花なら、アーモンドは希望の花でしょうか。1890年の2月に、弟テオと妻ヨーの間に男の子が誕生し、テオはその子に「フィンセント」と兄の名をつけました。これは小さな「フィンセント」の誕生祝いの絵だったのです。
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ゴッホと天に向かってうねり狂う糸杉
(糸杉と星の見える道 1890年5月12日-15日 サン=レミ クレラー・ミュラー美術館)
深い緑色をして、天に向かって燃え上がるようにそびえたつ糸杉。
これは南フランスの自然のなかでゴッホが心ひかれたもののひとつでした。たたきつけるような絵の具の力強いタッチが厚く重なり合い、それがかたちを作っていきます。
糸杉の右側の夜空に渦を巻くものは月で、左に渦巻くものは星。青い夜空全体がひとつの生き物のようにうねり、そのうねりは道路にもこだまして、まるで見ているわたしたちの足元が揺らいでいるような気分になります。ゴッホの代表作でもある『星月夜』にも、糸杉が描かれています。
(星月夜 1889年6月 サン=レミ ニューヨーク近代美術館(ニューヨーク州ニューヨーク)
糸杉は左側にしりぞいて、空いっぱいに火の玉のような星が渦を巻いています。右端にひときわ大きくう太陽のように燃え盛る火の玉。見方によっては、めまいを起こさせるような、不安にさせる渦です。ゴッホの目には、星空がこのように見えていたのでしょうか。あるいは、もしかしたら、ゴッホの孤独な魂が、このような幻をみせたのかもしれません。
自画像にみえるゴッホ自身の変化
(自画像 1889年9月 サン=レミ オルセー美術館(フランス・パリ))
以前の自画像に比べると、晩年の自画像は表情が穏やかになってきているようにみえます。しかしよくみると、自画像を包み込むあの不安な渦、それは衣服にもあらわれています。ゴッホは、自画像を描くことは自分の心のうちをのぞきこみ、魂をじっと見つめることだといいました。
だからゴッホの目は、何かを見続けているのでしょうか、探し求め続けているのでしょうか。人間の魂、心の中には、光のあたる部分とあたらない部分とがあり、心の病とはこの光のあたらない部分にかかわるものです。そして光のあたらない部分とじかに」向き合うことは魂の状態がもろくて不安定な、当時のゴッホのような状態の人にはとても危険なことでした。
感情の波と闘いながら描いた『医師ガシェの肖像』
(医師ガシェの肖像 1890年6月 オーヴェル=シュル=オワーズ 個人コレクション)
『医師ガシェの肖像』は、1890年6月、死の1か月余り前にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。
男性は、白い帽子をかぶり、頬杖をついて少し疲れた様子でぼんやりと考え事をしています。
机の上にある植物はジキリタスといって、葉には毒がありますが、少量ならば薬にもなるのです。ガシェ先生は医師ですが、自身で絵も描きますし、新しい時代の絵が好きでたくさん集めていました。ゴッホはそんなガシェ先生とすぐに友達になり、先生の年頃の娘さんにもモデルになってもらったほどでした。ゴッホの健康もだいぶ回復しているかのように見えましたが、しかしその調子には波がありました。そして彼がいつその波に襲われるのか、それがどれほどの波なのかは誰にもわからなかったのです。
ゴッホの死を予感させる絵画『カラスのいる麦畑』
(カラスのいる麦畑 1890年7月 オーヴェル=シュル=オワーズ ファン・ゴッホ美術館)
のどかな7月の麦畑に、一発の銃声が響き渡りました。それを聞いて、カラスの群れがいっせいに飛び立ちます。諸説ありますが、拳銃はゴッホがカラスを追い払うためだといって人から借りたものだったそうです。しかしゴッホはそれを我が身に向けたのです。銃声は長くあとをひいて、やがて麦畑はもとの静けさに、それも永遠に続くような静けさにつつまれました。
悲しみをたたえて見つめているような、不気味な深い青空が上にただただ広がっています。
実際には、この絵は悲劇の2週間前に描かれたものです。しかしこの絵には、ゴッホの最後を予感させるような不吉な感じがあります。絵の具のチューブから思い切り絞るように、生命のエネルギーがしぼりつくされ、それがキャンパスに直接叩きつけられているかのようです。ゴッホが亡くなったのは37歳でのことでした。命の残火を自ら消す形での死でした。
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あとがきにかえて
(草の中に座る女性 1887年春 パリ 個人コレクション(ニューヨーク州ニューヨーク))
さて、この記事では、ゴッホの生涯をたどりながら、その時々で描かれた作品を解説してきました。
ゴッホは行き過ぎた行動から”変人”だと揶揄されることもありましたが、市民の生活に寄り添おうとした優しい心の持ち主でもありました。何より弟テオとは距離は離れていようとも、絆はつねに結ばれていました。テオの頼りはゴッホの孤独な魂をどれだけ支えたことでしょう。
ゴッホの魂のうちには、誰もと同じように光の部分もあれば闇の部分もありました。ゴッホの特徴は「黄色」と「青色」のコントラスト、黄色は青によって輝きを増しますし、青は黄色によって深さを増すのです。光は影をともない、影は光にかたちを与えます。テオは兄ゴッホに寄り添う影だったのでしょうか、あるいはゴッホにとってはテオが光であったかもしれません。
弟テオは兄の死を嘆き、ゴッホが亡くなった翌年、まるであとを追うようにしてこの世を去りました。ゴッホが残した数々の名画、各々の絵が描かれた背景を考えながら鑑賞してみるとまた新たな発見があるかもしれません。
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参考にさせていただいた記事
- https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_works_by_Vincent_van_Gogh
- https://en.wikipedia.org/wiki/Langlois_Bridge_at_Arles
- https://www.britannica.com/biography/Vincent-van-Gogh
- https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/art/vincent-van-gogh
- https://www.vincentvangogh.org/
- https://www.vangoghgallery.com/misc/biography.html
- 画像引用元:canva image 他
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