トーゴ、ベナン、そしてナイジェリア西部にかけての海岸沿いには奴隷海岸という忌まわしき名前の場所があります。この呼び方は、かつてこの地が黒人奴隷を“積み出して輸出“していたことに由来しています。この記事では、現代になっても残る悍ましい名前の海岸、「奴隷海岸」の歴史をご紹介していきます。
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奴隷貿易のはじまり
歴史的には、「奴隷貿易」のきっかけは、1441年にポルトガル人のアンタム・ゴンサルベスが、西サハラ海岸で捕らえたアフリカ人の男女を母国へと連れ帰り、ポルトガル皇太子へと献上したことだったといわれています。ただし、このとき実際に献上されたのは厳密には黒人ではなくアラブ人だったといわれています。
その後16世紀に本格的な大航海時代にはいると、ヨーロッパから新天地を求めて多くの船が未知の海へと旅立ったのですが、なかでもポルトガル人は西アフリカの諸部族と通商をひらき、部族同士の争いで勝利した部族と敗北した部族の黒人を奴隷として“入手“するようになり、これがしていきました。このときに黒人の奴隷を積み出す拠点となったのが、奴隷海岸でした。
大国に大きな利益をもたらした、奴隷貿易
奴隷はのちにアメリカ大陸にも運ばれるようになり、それは19世紀初頭の奴隷貿易廃止まで公然と続けられていました。奴隷海岸から船に乗せられた黒人の奴隷の数は、2,000万人とも5,000万人ともいわれています。
最初に奴隷貿易の主導権を握ったポルトガルは、当時需要が高まっていた砂糖を西インド諸島のプランテーション農場で育てていました。その労働力としてアフリカの黒人奴隷を西インド諸島へと運び、その船で本国へ砂糖を持ち帰るというルートで貿易を行なっていました。
いずれにしても、大西洋を舞台にした貿易においてアフリカの黒人奴隷は重要な役割を演じていたのです。奴隷貿易において、奴隷はひとつの商品であり“積荷“として扱われていました。アフリカの奥地で捕獲され集められた黒人奴隷たちは奴隷海岸に集められると、背中や腹、肩などに焼きごてをおされ、”積荷同様の扱い”で「奴隷貯蔵庫に押し込まれた」のです。
積荷同然の扱いでの、劣悪な輸送
船の中でも彼らは同じような扱いを受けました。奴隷船はせいぜい200~300トン規模の小型船で、積荷同然だった奴隷たちは身動きもできないような狭い船倉に鎖でつながれた状態に押し込まれました。もちろん食糧や飲水は満足にあたえられておらず、衛生的にも最悪の状態であったといいます。長い航海の間には、飢餓や脱水症状などで命をおとす者、伝染病で息絶える者、そして自殺する者も珍しくありませんでした。
1829年にあるイギリス人が奴隷船を見た際の報告が残っています。それによると、その船には男女あわせて550人の奴隷が積まれていましたが、彼らは甲板と中甲板の間にある格子付きの昇降口のしたにぎっしり押し込められていたというのです。その船では、550人の奴隷のうち、50数人が伝染病などの理由で生きたまま海に放り出されたのでした。
生きて辿り着いても、待ち受けるのは過酷な労働
また、生きてたどり着けたとしても、奴隷たちは過酷な労働と生活を強いられ、命を落とす者も少なくありませんでした。奴隷貿易の拠点であったベナンの海岸には、現在「戻られざる扉」というモニュメントが建てられています。まるでドイツのアウシュビッツ強制収容所も思い起こさせる、ぞっとするような文言です。
これは、ここから船に乗せられた奴隷たちが2度と故郷には戻れなかったということを伝えるものです。教科書にもかつて「奴隷貿易」が行われてきたことが示唆されているわけですが、その言葉の響き通り、いやそれ以上に残酷なことが実際には行われていたのでありました。
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まとめ
アフリカ大陸を地図で見ると、南西部分が大きくえぐりとられるような形をしているのがわかります。そのえぐりとられた部分であるベニン湾にはいくつかの国が面していますが、その中でトーゴ、ベナン、そしてナイジェリア西部にかけての海岸沿いに「奴隷海岸」は位置しています。
奴隷商人は現地の黒人の部族に旧式の武器などを渡し、他の部族を襲わせ、武器の対価として奴隷を獲得していました。その数は1000万人とも2000万人とも言われており、大多数が働き盛りの男性だったことから、アフリカの人的・経済的・文化的な損失となり、現在までの貧困の原因の一つとされています。
余談ですが、スペインの王宮では「慰み者」と呼ばれる者たちが重宝されていました。その中にはアフリカ人も含まれており、ルイ14世の妃マリーテレーズは、ナボという小人症の黒人男性を気に入り側に置いていました。そして一説には彼との間に隠し子があったとも言われています。それを知ったルイ14世が激昂したことは言うまでもないでしょう。
こういった人間同士の生々しいやり取りははるか昔から続いており、“奴隷海岸“はそれを記憶するほんの一部なのかもしれません。
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参考文献