その美貌と快活さでダイアナ旋風を巻き起こした美しきプリンセス。若くしてチャールズ皇太子との不仲が明るみになり離婚に至るも、1997年、彼女は自動車事故で亡くなってしまいます。ふたりの間には何があったのか、この記事では、チャールズ皇太子とダイアナ妃の不仲を決定づけ、ふたりが離婚に至った真相を追っていきます。
- パーティで知り合い、マスコミに持ち上げられ一気に進展したふたり
- 皇太子の影にチラつくカミラ夫人の存在も無視して婚姻は推し進められた
- しかし強引な結婚はうまくはいかず、結局は離婚するに至った
ダイアナと皇太子の出会い
チャールズ皇太子とダイアナ妃が出会ったのは、1980年の夏に開かれた王室パーティでありました。チャールズ皇太子は3年前にダイアナの姉であるセーラと交際していました。
その為ふたりには面識があったのですが、年頃になり優しく慎まいダイアナに皇太子は惹かれていったといいます。ダイアナも目の前にあらわれたプリンスに興味をもち、姉の二の舞にはならぬよう慎重にことを進めていきました。
トントン拍子で進む結婚話
王室のロマンチックな暮らしを夢見ていたダイアナは、本来自分が好きではないヨットレースなど誘いにも喜んで出掛け、自慢の水着スタイルや泳ぎを披露してはチャールズの心を振り向かせようとしました。
出会いから2ヶ月ほどしてマスコミが騒ぎ出しふたりの交際を歓迎するムードが出来上がっていきます。マスコミ各紙が「もっともふさわしいお妃候補」「明るく純真さもあり、素晴らしい女性」と騒ぎ立て、ふたりの気持ちを置いて、世間はお祝いムードに包まれたのでした。
ロイヤルウエディング
ダイアナ妃とチャールズ皇太子のロイヤルウェディングが執り行われたのは、婚約発表から5ヶ月後のことでした。
年上好きの皇太子にとって14歳年下のダイアナには迷いがありましたが、「国民が好きになれる女性」という観点でもダイアナはぴったりでありました。
各国の元首や名族たち3,500人が愛彼、結婚式の模様は世界中にテレビ中継され、海軍の礼服姿をまとった凛々しい皇太子と、天使のように美しいダイアナが黄金の馬車にのってパレードする姿は国民の心をつかみました。こうしてダイアナはイギリス王室の一員となり、皇太子妃として注目される存在になったのです。
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皇太子にチラつく女の影
しかし幸せも束の間、皇太子の心の中にはある女性がいました。
それは当時人妻であったカミラ・ホールズ夫人です。カミラ夫人はチャールズが23歳のときに一目惚れした女性であり、ユーモアや会話のセンス、スポーツなどの趣味も一致するチャールズが心を許せる数少ない相手でした。
しかし彼女は1歳半年上であることも禍いし、踏ん切りがつかないチャールズに痺れを切らしたカミラは陸軍士官のアンドルー・パーカー・ボウルズと結婚していたのです。それでもふたりの心が離れることはなく、連絡が絶えることもありませんでした。
情緒不安定な生活と、摂食障害
ダイアナがカミラ夫人の存在を知ったのは、結婚の2、3ヶ月前お妃教育のためにバッキンガム宮殿へ移り住んでからでした。
ダイアナが見つけたカミラ夫人へのプレゼントと思われる金のブレスレットを見つけた時も、皇太子は「別れのプレゼント」だと言い訳しますが、ふたりは内々で密会を重ねていました。断ち切れないカミラとの関係、また息が詰まるような王室生活のプレッシャーから、結婚式直前にダイアナは摂食障害に陥り過食嘔吐を繰り返すようになります。
相容れぬふたり
ハネムーン中、早くもふたりの間には亀裂が入ります。両親のような轍は踏むまいと『幸せな結婚生活』を夢見ていたダイアナ、包容力のある優しい男性を求めたわけですが、実際のチャールズは冷淡で愛を与えることを知らずと真逆のタイプ。
思うようにならないと不機嫌になり、感情を爆発させるダイアナの扱いに皇太子も戸惑いふたりの間には距離ができていったのです。
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我慢の生活
皇太子は乗馬、狩猟好きで自然や田舎を愛したのに対し、ダイアナはダンスや音楽、ファッションや買い物好きの都会派で、カントリーライフは退屈そのものでした。
妊娠中も自分だけポロの試合にでるなど外出しがちの皇太子に「カミラと会っているのではないか」と疑心暗鬼になり、階段からとびおり自殺未遂をはかったり、部屋に引きこもって癇癪を起こしたり情緒不安定な日々がつづきました。
皇太子の嫉妬
そんな苦痛はうちに秘め、ダイアナの美しさには磨きがかかり世界のプリンセスとして名を馳せていきます。1983年、ダイアナが皇太子妃としてはじめて海外公式訪問をおこなったときも、ダイアナ旋風がまきおこり、彼女を一目みようと多くの人が集まりました。
しかしダイアナの人気があがるにつれ皇太子は自分の影が薄くなることに嫌気がさしていきます。王室育ちのプリンスはまるで自分が押しのけられたように感じ、再び心はカミラ夫人へと傾斜していったのでした。
暴露本の発売とふたりの別居報道
やがて公然といがみあうようになったふたりには不仲説がながれ、それを裏付けるように公務もプライベートも別行動をとるようになっていきました。そして、1992年6月には、屈辱的なダイアナの結婚生活を綴った暴露本が出版されました。
これにて、夫婦の間にはもはや手の施しようがないほどの距離がうまれることとなります。ダイアナはロイヤルファミリーの権威をおとしめたとして王室の怒りを買うことにもなりました。2人の別居が発表されたのは同年12月のことでした。
ふたりの離婚
どこをとっても悲劇な状態でしたが、ダイアナはあまった情熱を事前慈善事業へと傾けていきました。ホスピスや孤児院を積極的に訪問し、エイズやハンセン病患者にも怖気ることなくふれあい、抱きしめました。
1995年にはその波乱に満ちた私生活、夫の愛人の存在、自身の自殺未遂に摂食障害、また自らも不倫をしていたことをBBCテレビのインタビューで赤裸々に語ったのでした。
エリザベス女王がふたりに離婚を勧告したのは、その直後のことでした。別居後ダイアナは皇室行事からは締め出されて、皇太后の誕生日にも招待されることはなく、彼女のまわりに廷臣や女官がつけられることもありませんでした。正式に離婚が発表されたのは1996年のことでありました。
その後のダイアナ妃
ダイアナが最後までこだわったのは称号でした。
チャールズ皇太子との間に授かった、ウィリアム王子とヘンリー王子が、まだそのときはとても幼かったのです。ダイアナはふたりの王子の母としてあり続けたいと主張しましたが、姫殿下と王室の身分は剥奪され、”皇太子妃ダイアナ“の称号だけがのこりました。
どん底にいたダイアナの心を慰めたのは、ウィリアム王子の「どんな風に呼ばれても、ぼくにとっては大切なママだよ」という言葉だったといいます。
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まとめ
ダイアナ妃は、1997年8月31日深夜、パリで交通事故に遭い亡くなってしまいます。彼女の乗ったリムジンはパパラッチに追われ、時速190キロで疾走。トンネル内のコンクリートの支柱に激突、一緒に乗っていた恋人ドディと運転手も即死でした。チャールズ皇太子との結婚以来、その奔放さと美しさ故に世間を騒がせてきたダイアナ王妃。
36歳という若さで亡くなった彼女の知らせに世界中の人が悲しみ、ケンジントン宮殿の外にはおびただしい数の献花とメッセージが山積みになったといいます。彼女は、短いながらも鮮明なイメージを英国王室へと焼き付けていったのでした。