常に欧州の中心にあり、まわりの国と積極的に婚姻関係を結ぶなどして力を世界へ拡大してきたハプスブルク家は、ヨーロッパ史の核であり基盤であったとも言われています。この記事では「高貴なる青い血」を受けついだ一族、ハプスブルク帝国の終焉と末裔について解説していきます。
- 一族は、1919年ハプスブルク法によって、王朝的な特権を放棄させられた
- 財産権については、1963年6月オーストリア政府により返還されている
- 最後の皇太子オットーの子供は健在で、長男のカール氏が2007年より家長を務めている
一家の権威剥奪
ハプスブルク家は1911年に、多くの権利を剥奪されることとなりました。
オーストリア共和国の国民議会が、「ハプスブルク法」を通過させるという強硬手段に出たのです。これは、ハプスブルク家がすべての王朝的な特権を放棄し、民間人としての地位を忠実に受け入れない限り、オーストリア領土からすべてのハプスブルク家を追放する、というものでした。
財産権の行方
「ハプスブルク法」にて没収されたオールトリアのハプスブルク財産権ですが、1935年に復活することになります。1938年から1946年にはドイツのヒトラーにより再び撤回されるものの、1963年6月オーストリア政府は、ハプスブルク家の私的返還を認めることになります。
世界大戦期には、ハプスブルク家も時代や歴史に翻弄されることとなったのでした。
スポンサーリンク
最後の皇太子
(父カールに抱かれるオットー)
最後の相続人はオットー・フォン・ハプスブルク。
オーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの第一子で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子でした。ただ、1918年の帝政廃止によって皇太子ではなくなっています。
その後は、ハプスブルク家の家長となったオットー。第二次世界大戦中にはアメリカに亡命してルーズベルト米大統領やチャーチル英首相と接触し、弟らとともにオーストリア解放に尽力していたという記録が残っています。
ハプスブルク家の現在
1961年にオーストリアの王冠に対するすべての主張を正式に放棄したハプスブルク家。オットーが「正式に王室の人物」と見なされた最後の人物となりました。
王朝の支配は終焉しましたが、オットーには7人の子供がおり彼らは今も健在です。現在は、オットーの長男であるカール氏が、ハプスブルク家の家長を務めています。
まとめ
1919年、王朝的な特権を放棄させられたハプスブルク家。一時は財産権も取り上げられましたが、1963年6月オーストリア政府により返還されました。最後の皇太子オットーの子供は健在で、長男のカール氏が2007年より家長を務めています。
640年の中に眠る長い歴史と物語の数々、権威の裏にある生々しい覇権争い。ハプスブルク家の歴史は調べても調べても興味が尽きないものです。ハプスブルク家の子孫についてはこちらの記事 (【ハプスブルク家の末裔】600年続いた巨大王朝 | 華麗なる一族の末路) にまとめております。
関連記事
- ラスメニーナスに描かれた王女、マルガリータ|血族結婚がもたらした悲劇
- 【ハプスブルク帝国とは】歴史と魅力を徹底解説
- 【ハプスブルク家】高貴な青い血, 顎にみえる禁断の歴史