マリー・アントワネットの母、マリア・テレジア。ハプスブルク家は優れた当主を何人も輩出してきた名家ですが、彼女はひときわ目立つ存在でした。ヨーロッパの覇権争いがはげしくなった18世紀、オーストリアを救った彼女はこんな言葉をのこしています。
私は最期の日に至るまで誰よりも慈悲深い女王であり、必ず正義を守る国母でありたい
この記事では家系図を用いながら、マリア・テレジアの人生をご紹介していきたいとおもいます。
- 変わりゆく時代に、ハプスブルク家の後を継いだマリア・テレジア
- 様々な施策をおこない、国を内側から鍛えたいった人物として知られている
- ヨーロッパ列強を相手にハプスブルク家の領土を守り抜き「国母」と慕われた
マリア・テレジアとは何者か
「マリア・テレジアの肖像画」
こちらの綺麗な美女は、若き日のマリア・テレジア。
一度見たら忘れない透けるような白さと、髪色は息を呑むほどで、この美しさは娘のアントワネットへも引き継がれました。変わりゆく時代の中で、ヨーロッパ列強を相手にハプスブルク家の領土を守り抜き「国母」と慕われたのも彼女の特徴のひとつです。
女帝と呼ばれて
マリア・テレジアは「女帝」とまとめられることも多いですが、正式には、オーストリア女大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王といった、多くの称号を持つ人物でありました。功績には、税制や行政の改革などがあります。
- 義務教育制度を確立するなど近代化を進め、
- 軍事力なども強化
- 知識・知性の豊かな国民の増加
するなどして、国を内側から鍛えた人物でもありました。
ハプスブルク家の後継
1717年、ハプスブルク家に生まれたマリア・テレジア。
父である「チャールズ6世 (神聖ローマ皇帝)」には男児の世継ぎがおらず、同家はマリア・テレジアが継承することになりました。ただ「皇帝位」は、男性が世襲するのが一般的でしたので、夫のフランツ1世が引き継ぐことになりました。
ただ、その他の女王位はそのままマリア・テレジアが保持しました。
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子沢山の家庭を築いて
マリア・テレジアは多産で、16人の子宝に恵まれたことでも有名ですね。結果的に成人した10人はそれぞれフランス王妃、ナポリ女王、シチリア女王、パルマ女王、2人の神聖ローマ皇帝 (ヨーゼフ2世、レオポルド2世) などこれまた著名な人物ばかり。
なんといっても有名なのは、末娘マリー・アントワネットでしょう。「女帝」となると、通常子供は乳母に任せるパターンも多いのですが、マリア・テレジア娘をこよなく愛していたといい、かわされた手紙も多く残っています。
娘にマリー・アントワネット
(マリーアントワネットの肖像画)
ルイ16世の元に嫁ぎ、フランス王妃となったマリー・アントワネット。最後はフランス革命の波にのまれて、ギロチンで首をはねられたことも有名ですね。王政への不満が爆発しての革命でしたので、マリーは自国にも戻れたのでしょうが、最後はフランス王妃のプライドを持って運命を受け入れました。
マリー・アントワネットの最期の言葉は、死刑執行人シャルル = アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した、「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」だったとされています。その姿は最後まで宮廷人として、民衆の目に映ったことでしょう。
最強の国母として
(マリア・テレジアと家族たち)
オーストリアをヨーロッパ列強から救っただけではなく、多くの子供をもうけ、国を統治し勢力をひろげていったマリア・テレジア。
ハプスブルク家を受け継ぎ、変わりゆく時代の中で領土を守り抜いた国母、マリア・テレジア。様々な施策をおこない、国を内側から鍛えた人物でもありました。アントワネットの母というだけあり、若い時の肖像画がとても美しいのも有名ですね。愛する夫と一緒になり、子宝にも恵まれたからでしょうか、晩年の肖像画には「母」らしい気品さがあらわれているのでした。
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まとめ
夫フランツはあまりよく言われることがないのですが、実際は財政管理に長けていたともいわれています。マリア・テレジアがお金に苦労せず、ヨーロッパ列強を相手にハプスブルク家の領土を守り抜けたのも、彼のおかげだといわれています。
それにしてもオーストリアをヨーロッパ列強から救っただけではなく、多くの子供をもうけ、国を統治し勢力をひろげていったマリア・テレジア。まさに強く美しくたくましくそして知的な女性、この時代に生きた英雄。もしいま彼女が生きていたらどんなことに取り組むのでしょうか。
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