カトリーヌ・ド・メディシスという名を聞いたことはありますでしょうか。イタリアフィレンツェで生まれ、のちにフランス女王となった人物です。夫の熱烈な求愛を受け宮廷に嫁いだエリザベートとは真逆で、夫となったアンリ2世は彼の教育係であったディアーヌに夢中、王妃を愛すことはありませんでした。
しかし夫アンリ2世が予期せぬ事故で亡くなると、妾であるディアーヌをさっさと追い出し政治を牛耳ります。そんな人間らしいドラマが一生涯にわたり続いた彼女、カトリーヌ・ドメディシスの数奇な運命を追っていきます。
カトリーヌドメディシスとは
(カトリーヌ・ド・メディシス 引用元:wikipedia)
カトリーヌ・ド・メディシスは1519年フィレンツェで生まれ、のちにフランス王妃となった人物です。カトリーヌの父はロレンツォ2世、母はマドレーヌ、当時のメディチ家は、巨大な富と権力を手にしていましたが、父が公爵であり、母がブローニュ女伯爵であるにもかかわらず、お家騒動のゴタゴタがあり、カトリーヌ本人は比較的低い出自となっています。
生まれてすぐに亡くなった両親
(左が父ロレンツォ2世、右が母マドレーヌ 引用元:https://es.wikipedia.org/wiki/Catalina_de_M%C3%A9dici)
当時の記録によりますとカトリーヌが生まれたとき、彼女の両親は「まるで男の子が生まれたかのように喜んだ」そうです。
しかしそんな幸せもつかの間、生まれてから一ヶ月もたたないうちに両親はともに亡くなってしまいます。メディチ家兄脈を正統に継ぐ唯一の人間となったカトリーヌに対し、フランソワ1世は後見人になることを臨みましたが、教皇レオ10世はこれを拒み、彼女は父方の祖母アルフォンシーナ・オルシーニ(ピエロ・デ・メディチの妻)に養育されることになります。
あれよあれよと、反対勢力の人質に
(教皇クレメンス7世。セバスティアーノ・デル・ピオンボ画 1531年 引用元: https://en.wikipedia.org/wiki/Catherine_de%27_Medici)
当時はイタリアを巡ってフランスとハプスブルク家との戦闘が続き、マルティン・ルターによる宗教改革運動もあり、とても不安定な時代でした。1527年フィレンツェにおけるメディチ家の政権は、反対勢力により打倒され、カトリーヌは人質として女子修道院に入れられました。
(カール5世 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ画、1548年 引用元:https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_V,_Holy_Roman_Emperor)
1529年10月進撃して来た、ハプスブルク家のカール5世の軍隊はフィレンツェを包囲し、
- カトリーヌを淫売屋に入れろ
- 城壁にさらせ、兵士の慰みものにしろなどという声をあげ、
- 兵士たちは彼女を驢馬に乗せて群衆の嘲りを受けさせながら通りを引き回したそうです。
1530年8月12日にフィレンツェは陥落。教皇クレメンス7世はカトリーヌをローマへ呼び寄せ、面会の時には涙を流しながら迎え入れました。その後、良い嫁ぎ先を、と彼はカトリーヌの夫探しにとりかかるのです。
教皇クレメンス7世とは
(教皇クレメンス7世。セバスティアーノ・デル・ピオンボ画 1531年 引用元:wikipedia)
教皇レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたのですが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招いた人物です。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始。結果的にクレメンス7世はカール5世と和解し、カール5世への皇帝戴冠をボローニャで行いました。
フランスのアンリ2世の元へ
(子供の頃のヘンリー王子 (アンリ2世) 引用元:wikipedia)
カトリーヌには多くの求婚者がいました。しかし教皇クレメンス7世はがこれだ、と飛びついたのは1533年初めにフランソワ1世がもちかけた次男オルレアン公アンリとの縁談でした。カトリーヌは、フランスのアンリ2世の元へ嫁ぐこととなります。派手な装飾や贈答品によって誇示された盛大な結婚式が1533年にマルセイユでおこなわれました。
(オルレアン公アンリとカトリーヌの結婚式 ジョルジョ・ヴァザーリ画 1550年 引用元:Wikipedia)
寵愛を受けたのは妾のディアーヌ
(アンリ2世/ヘンリー2世 https://en.wikipedia.org/wiki/Henry_II_of_France)
王妃を娶ったにもかかわらず、アンリ2世は、彼の教育係である美女ディアーヌ・ド・ポアチエに胸を焦がしていました。そのためカトリーヌ・ド・メディシスは宮廷内で肩身の狭い思いをすることになりました。さらにアンリ2世はカトリーヌ・ド・メディシスが、如何なる政治的影響力を持つことも許しませんでした。国王が不在の際は、カトリーヌが摂政の役割を担っていたものの、権限は厳しく制限されており、名目的なものに過ぎなかったといいます。
(カトリーヌ・ど・メディシスの肖像画
カトリーヌ・ド・メディシスは凡庸な見た目をしており、冴えず、またスコットランド女王メアリー・スチュアート (息子フランソワ2世の嫁) もバカにしたような態度をとったといいます。まだ幼かったメアリーは知ってかしらずかディアーヌに媚びを売り、カトリーヌをさらに苛つかせたのでした。(参考記事:【処刑台でも女王】魅惑の女性、メアリーステュアート)
魅惑の美女、ディアーヌ・ド・ポワチエ
(ディアーヌ・ド・ポアチエ引用元:Wikipedia)
ディアーヌ・ド・ポワチエはフランスの貴族女性。15歳のときに35歳年上のアネ領主ルイ・ド・ブレゼと結婚して2人の娘をもうけるも、夫は1531年に逝去し未亡人となります。ディアーヌは誰もが羨むほどの美貌を備え、50代になってもその容貌が衰えることがなかったといいます。
(ディアーヌ・ド・ポアチエ 引用元:Diane de Poitiers : une « cougar » du XVIe siècle ?)
11歳のときにアンリ2世に「上品な振る舞いを教えるように」と家庭教師を任じられてから、アンリ2世は生涯にわたり彼女の虜となります。妻には目もくれず生涯ディアーヌのみに愛を注ぎ、また同じほどにディアーヌも愛を返したとか。
(シュノンソー城 引用元:Wikipedia)
またアンリ2世は彼女に新たな爵位を与え、高価な宝石ばかりでなく、白亜のシュノンソー城までをプレゼントして、狩や戦場、どこにでも彼女を同伴していたようです。
カトリーヌドメディシスの逆転劇
夫に降りかかった、予期せぬ悲劇
(アンリ2世とモンゴムリ伯との馬上槍試合 引用元:Wikipedia)
1559年4月、アンリ2世は神聖ローマ帝国およびイングランドと条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させました。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペインハプスブルク家のフェリペ2世との婚約が取り決められていました。
(フランソワ2世と王妃メアリー・スチュアート フランソワ・クルーエ画1558年 引用:Wikipedia)
同年6月22日にパリで代理結婚式は祭典や舞踏会、仮面劇など、様々な祝いの式がもうけられました。しかし、アンリ2世が気まぐれで思いついた祝宴の余興のなかで悲劇がおきます。アンリ2世の頭部に、部下の槍が誤って刺さってしまい、王はそのまま亡くなってしまったのです。誰もが予期せぬ出来事でした。
ディアーヌの追放
(カトリーヌ・ド・メディシスの全身画)
カトリーヌは王から寵愛を受けていたディアーヌをまっさきに宮廷から追い出しました。ディアーヌは殺されることはありませんでしたが、王から与えられた物は全て没収され、都からも、宮廷からも追放されることとなりました。もっとも、カトリーヌの報復はここまでで、既に60歳になっていたディアーヌに代わりの領地を与え余生を全うさせたといいます。いままで軽んじられ、虐げられて来たカトリーヌ・ド・メディシスが政治的頭角を表すのはここからです。彼女は幼い皇子を玉座につかせて、摂政となって力をふるいます。
めくるめく変わる王座
(シャルル9世 フランソワ・クルーエ画 1565年 引用:Wikipedia)
国王亡き後は、カトリーヌとアンリ2世の子供であるフランソワ2世がフランス王の座につきますが、病弱だったため16歳にしてこの世を去ります。フランソワ2世とメアリー・スチュワートの間に子供はいなかったため、次はカトリーヌの息子であるシャルル9世が王座につきます。シャルル9世はわずか10歳であったため、カトリーヌ・ド・メディシスが摂政を行いました。フランスの多くの地域では国王ではなく、貴族が支配権を掌握しており非常に物事が入り組んでいた時代、そんなシャルル9世もわずか23歳にして帰らぬ人となってしまいます。
別の息子を玉座にすえて
(アンジュー公アンリ (アンリ3世) フランソワ・クルーエ画1573年)
カトリーヌ・ド・メディシスは深く落ち込みますが、別の息子アンリ3世を皇帝の座へつけます。しかし彼女はアンリ3世を、前王のように制御することはできなかった、といいます。政府における彼女の役割は、行政長官か放浪する外交官のようで、彼女は王国内を広く旅し、国王の権威を守らせ戦争を阻止しようと努めました。1578年に彼女は南フランスを鎮撫する役目を引き受けていました。
子供との軋轢もあり、カトリーヌ・ド・メディシスは1589年1月、69歳で胸膜炎により亡くなりました。波乱万丈な人生、やっと自分の番が回ってきたかと思いきや、子供たちは次々と夭逝。彼女は死の床で一体何をおもったのでしょうか。
あとがきにかえて
(メアリー・スチュアート 引用元:Wikipedia)
アンリ2世の没後、宮廷から追い出されたのはディアーヌだけではなく、彼女を慕い、冴えないと失礼な態度を取っていたメアリー・スチュアートも同じでした。一時はフランス王妃の座を射止めたメアリーですが、姑のカトリーヌの怒りをかい、夫の死後フランス宮廷に彼女の居場所はなかったのです。
持って生まれた美貌と魅力で王に生涯愛されたディアーヌ・ド・ポアチエと、凡庸ながらも投げ出さずに運命と向き合い続けたカトリーヌ・ド・メディシス、あなたはどちらの女性に惹かれましたか。神様が遊んで引き合わせたように、まるで真逆のふたりの物語、しかし最後は正妻カトリーヌにすべてを没収されてしまったわけですから、美貌だけで (もちろん貴族女性としての品や知識はあれど) 何かを得ようとするのは難しいのかもしれませんね。どちらにしても、2人の物語からは学ぶものがたくさんあるように思えるのでした。
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