いい加減戦闘のゴタゴタにも飽き「ちょっとラクでもしたい、娯楽がほしい」「芸術にも自由を」といった風潮がうまれた14世紀のイタリア。今日はそんな時代に生まれたフィレンツェ派の代表画家ボッティチェリと、彼の名画『聖ゼノビウスの生涯の四つの場面』を優しく解説していきたいとおもいます。
この絵画を描いた名匠、ボッティチェリ
画家ボッティツェリは初期ルネサンスでもっとも業績を残したフィレンツェ派の代表画家、宗教画・神話画などの傑作を残しました。
(三博士の礼拝 画:ボッティチェリ)
有名になったきっかけは、祭壇画『東方三博士の礼拝』。ロレンツオとその家族であった豪商メディチ家に公的に捧げられた作品でした。画面の右端でこちらを見つめるのはボッティチェリ自身、フィレンツェの貴族をともなって、キリストを崇拝している場面で、見事にメディチ家の面々が溶け込んでいます。この絵をきっかけにボッティチェリは様々な注文を受けていくことになったのでした。
4枚で構成される、聖ゼノビウス伝をわかりやすく解説
イタリア・ルネサンスの画家、サンドロ・ボッティチェリの絵画シリーズ。これには、 フィレンツェ司教である『聖ゼノビウスの生涯と奇跡』が4枚のパネルに描かれています。
次のパラグラフからはこの絵を、ひとつひとつ解説していきます。
① 青年期と第1の奇跡 (1枚目)
(ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵)
1枚目では『親の決めた結婚を拒否して洗礼をうけ、フィレンツェの司教に任命されるまで』がまるで巻き絵のように、左→中央→右へと描かれています。右のオレンジ色の衣の男性、央の洗礼を受ける半裸の男性、右の赤い衣の男性はすべて聖ゼノビウス。
- 左側で踵を返しているのは親に決められた結婚を拒否し、俗世と縁切りした瞬間
- 中央では洗礼を受け、
- 右部分ではフィレンツェ司教に任命される場面
が描かれています。
② 3つの奇跡 (2枚目)
(ニューヨーク メトロポリタン美術館所蔵)
2枚目では3つの奇跡が、建物の下で起きている様子が描かれています。左から、
- 悪魔払いをする聖ゼノビウス
- 死んだ少年を蘇らせる聖ゼノビウス
- 盲人を癒やす聖ゼノビウス
という3つの奇跡です。
悪魔に憑かれた青年たちは自分の手を噛む修正があるため、それを防ぐために手を縛られています。また中央に描かれるのは、亡くなった少年を蘇らせる聖ゼノビウスで、大きな身振りの赤い衣の女性は少年の母親でしょう。右端では聖ゼノビウスがそっと盲人に目をふれて、目を癒している姿をみることができます。
③ 3つめの奇跡 (3枚目)
(ロンドン・ナショナルギャラリー所蔵)
こちらのタイトルも3つの奇跡ですが、2枚目とは内容が違い、
- 名家の息子を蘇らせる聖ゼノビウス
- 落馬した死者を蘇らせる聖ゼノビウス
- エヴァニウスの親戚の蘇生
という別の奇跡が描かれています。
④ 聖ゼノビウスの最後の奇跡と死
(ドイツ ドレスデン美術館所蔵)
4枚目には子供が荷車にひかれており、その子供を生き返らせる聖ゼノビウスの奇跡が描かれています。同時に描かれた母のみせる、身振りと表情でみせる感情表現が印象的です。この絵画も左から右に読みとくことができます。
- 子供が遊んでいる間に車にぶつかり、あわてて母親が駆け寄る図
- 母親 (未亡人と思われる) は、聖ゼノビウスのもとへ子供をはこび、
- 聖ゼノビウスは子供を蘇らせ、健康な状態で母親のもとへかえします
そして右部分では聖ゼノビウスが死の場面で弟子に囲まれ、最後の言葉を述べ祝福を与えています。
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見どころ
(聖ゼノビウス伝 4枚目の右上部 聖ゼノビウスが死の床につき祝福をあたえる場面)
表現的に歪んだ形、非自然主義的な色づかいはボッティチェリ晩年の絵画にみられる特徴で、この4枚は彼の最後の作品なのではないかといわれています。舞台はルネサンス様式の建築物、遠近法を用い人物やその配置こそが主役とされており、『人間は万物の尺度である ( Man is the measure of all things)』を示す意図があるとされています。
人間は万物の尺度である
(古代ギリシアの哲学者 プロタゴラス Salvator Rosa – Démocrite et Protagoras)
『人間は万物の尺度である』はプロタゴラスの有名な言葉で、『同一の事象に対する感覚的知覚、ないし判断は、個々の人間によって異なるかあるいは対立する可能性があり、したがってすべての判断の基準は個々人に属する』という考え方です。
イタリア人画家 ボッティチェリの人生
(『東方三博士の礼拝』に書き込まれたボッティチェッリの自画像)
ボッティチェリは職人階級でしたが、貴族たちと交わる生活をするなど裕福な家庭で育ち、教養がたかく、文学や神話に物語、詩や哲学や植物学からインスピレーションをうけ、それらを作品化してきました。
フィリッポリッピへの弟子入り
(フィリッポリッピの自画像)
何しろ14世紀のことですので、ボッティチェリについてのあまり詳しい記録は残っていないのですが、13歳で金工細工の修行に出された後、当時フィレンツェで人気のあったフィリッポリッピの工房へ弟子入りしたといわれています。
陽気で破天荒な師匠、フィリッポリッピ
(受胎告知画:フィリッポ・リッピ 1440年代)
フィリッポリッピはとりわけ処女マリアを好んで描き、作品に優雅なリアリズムと茶目っけ、生き生きとした魅力をそえるのを得意とした人物でした。
- 陽気で実行力に富み、
- 女好き (好んで描いたマリアのモデルは彼が一目惚れした尼僧といわれる)
- 仕事を抜け出して、彼女に会いに行くことも (そこで出来た子供はのちにボッティチェリの弟子となる)
というなかなか破天荒な師匠ではありましたが、ボッティチェリが女性の美しさを描くのを得意としたのは、この師匠の影響が大きいといわれています。
師の影響を受けた、ボッティチェリの絵画
(ザクロの聖母 1487年、ウフィツィ美術館所蔵)
女性の美しさに憧れて、やわらかな情緒に包んで表現する画法もまた師匠の影響が大きいといわれています。ただボッティチェリが師匠と違ったのは、
- 病弱で引っ込み思案であり
- 行動力にいささか欠け、女性に対しても奥手であり
で、生涯独身だったということでしょうか。彫刻家であり画家であり、金細工師のアンドレア・ヴェロッキオ (あのレオナルド・ダ・ヴィンチの師となる人物) と工房をシェアしていました。
工房には、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
1466年、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りします。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディらがいます。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せたといいます。 (Wikipedia レオナルド・ダ・ヴィンチ ヴェロッキオの工房時代より) 錚々たるメンツがひとつの工房にいたのですから、ものすごい時代ですね。
あとがきにかえて
(バージニア物語、アカデミアカラーラ)
苦しみのあるゆがんだ人物と建築の背景への関心を持つパネルのやや厳しいスタイルは、ボッティチェリの最後の年の典型です。また聖ゼノビウスの生涯を描いたこの4枚は色々な点で異なっていることから、「画家で異なるのではないか」と提案した学者もいました。
しかしこれらの違いは異なる処理、洗浄、修復によるものだといわれています。とくにロンドンにある2枚のパネルは最高の状態で、クリーニングと修復が行われています。逆にニューヨークのパネルは最も劣悪な状況にあり、あまりに洗浄されすぎて色が溶け出したようにも見えるそうです。でも500年以上前に書かれた絵ですからね… 残っているのがもう奇跡といいますか、実際に目の当たりにしたときに何を感じるのか、とても楽しみな作品でもあります。
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