『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女、アンネ・フランク。世に語り継がれることになる、ユダヤ人大虐殺のリアルを記した書籍です。この記事では、日記をかいたアンネをより深く知るための3つの逸話をご紹介します。
日記は書き直されていた
オランダの文部大臣が「第二次世界大戦の目撃証言がほしい」と口にしたことを聞いて、アンネはすぐに日記を書き直し始めました。作家として有名になりたかった彼女は、日記を書き直して出版することが第一歩であると感じたからであり、日記のすべてが出版されることを望まなかったので、誰もが読めるような方法で第2の日記をつくることにしたのです。
彼女は自分が出版した日記に 「秘密の別館」 という題名を付けるつもりでしたが、この日記を書き終えることはできませんでした。その前に、匿名の密告により隠れ家にいた全員が当局に逮捕されてしまったからです。
強制収容所での過酷すぎる労働
アンネ・フランクとその家族は2年以上ナチスから隠れていたので、隠れ家にいたメンバーは全員犯罪者扱いとなり強制収容所に連行されました。当局は彼女らがアウシュビッツに到着すると、父オットーをアンネたちから引き離しました。
彼らは犯罪の代償として、過酷な労働を強いられることになります。
アンネと姉、母は重い石や草のマットを運ばされました。他にもあったであろう過酷な仕事を考慮すると、アンネたちの精神的、感情的、肉体的な苦痛はとんでもないものでした。さらにほとんど食べ物をもらうこともできず、衰弱して、病気を患っていきました。衛生状態もひどいもので、多くの人が感染症などにかかりそれはとても酷い状況だったといわれています。
日記で綴られた”心の健康”
見つかれば命が危うい、2年以上も息を潜めて隠れ生きる生活がどれほどのものか、殆どの人たちは想像すらできないでしょう。しかし『アンネの日記』は、それを生々しく教えてくれます。アンネは日記を手にしたときから、思ったことのすべてのことを書き綴っていました。
別館のメンバーが日々直面している困難について書きながら、アンは自分自身の心理的、感情的な健康状態についても書いていました。
1944年2月、アンは「生きていようが死んでいようがほとんど気にしなくなってきた」と綴っています。それは絶望や諦めといった意味合いではなく、絶対に生き抜くぞ、といった覚悟に似たものでした。
まとめ
人々の記憶には遠くなっていきますが、現代社会は悲惨な歴史の上に成り立っています。ドイツは過去の過ちを悔やんで、メルケル首相を中心として積極的にシリア難民を受け入れました。
アンネたちが連れて行かれた、アウシュビッツ強制収容所。強制収容所にひかれた列車のレールは2本に別れていました。それはより多くの囚人をいれるため、到着した人々は「労働に耐えられる」か、「耐えられないか」で分けられました。
耐えられるとされた人は過酷な肉体労働へ、病人や弱い女性などは知らされぬままガス室へ歩かされ、どちらに選ばれても地獄だったのです。無垢な少女が書き残した日記、偏見もなにもない「現実に起こったこと」が綴られたアンネの日記。
人類にとって、重要な財産であることは間違いないでしょう。
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