【カルロス2世にかけられた呪い】ハプスブルクの子供達が背負った障害

ハプスブルク家

スペインハプスブルク家最後の君主となったカルロス2世。彼には同家が重ねてきた近親婚の影響が強く現れており、その風貌と知性の鈍さから呪われた子と恐れられた国王でありました。この記事では、カルロス2世を中心に、ハプスブルクの子供達が背負った障害についてみていきます。

この記事のポイント
  • 度重なる近親婚の末、誕生したのがカルロス2世
  • 見た目にも、また知能的にも国を統治することができないほど影響がでていた
  • 子を残すことはなかったが、予想に反して長生きをし、38歳の生涯を全うした

 

カルロス2世の誕生

カルロス2世

叔父と姪の結婚から生まれた彼には、近親結婚の影響が強く影響していました。家系図を遡ると、父フェリペ4世だけでなく、祖父もまたハプスブルク家同士の結婚から生まれていたのです。

カルロス2世がうまれたとき、マドリッドの新聞は彼のことを「容姿は最高に美しく頭は大きくしっかりし、髪は黒く肌はしっかりしている」と報道しました。しかし実際彼の身体はいつもブランケットで覆われており、王子の姿をみられる人は稀でした。生まれた王子は”虚弱体質”らしい”本当は女の子らしい”といった噂が国外にまで広がりとくにフランスのルイ14世はスペイン宮廷の状況に目を光らせていました。

恐れられた容姿

prince

マドリッド宮殿にフランス大使がおとずれ王子の誕生を祝福しましたが、目的は『王子の様子』を確認するためでした。この大使の報告は「王子はとても虚弱で、頬には湿疹がでており、頭はかさぶたで覆われている。右耳からは耳垂れがでており聴覚がすぐれないが、帽子で器用に覆われているので本当のところはわからない」というものでした。

実際どうだったかというと、3歳になっても頭蓋骨が完全に塞がれることはなく、ひとりでは立てず、4歳になってもひとりでは歩くことはできませんでした。9歳でもまだ字がかけず、読むこともできなかったといいます。

スペイン王に即位するも

父フェリペ4世が亡くなると、周りは彼を半ばむりやり『カルロス2世』としてスペイン王に即位させました。摂政をつとめたのは母マリアナです。

カルロス2世 家系図

しかし当然幼くまた知性的にも当時できない王のもとで、政治の大半は母の重用した信頼に足らぬ廷臣に委ねられ、ヨーロッパ列強にツケ入れられる隙を与えただけでした。

スポンサーリンク

魔法にかけられた王

カルロス2世

元々近親結婚の影響もありスペインハプスブルク家の乳児死亡率は高かったのですが、それが末代になるとさらに表面化し、患ってばかりの王をまわりはエル・エチサードと呼びました日本語に訳すと『魔法にかけられた子』『呪われた子』という意味です。

宮廷はカルロスをなんとか救おうと祈祷師や巫女が多く雇われ、カルロス自身も「自分はなにかに呪われている」としてお守りを身に付けていました。

享年38歳

カルロス2世の妻 (王妃の肖像画)

長くは生きられないといわれていたカルロスですが、成人し2度も結婚することになります。るで人身御供のように捧げられたふたりの王妃は夫の様子をみて泣き出したといい彼らに子供ができることもありませんでした。マリーに至っては病的なまでに異常な夫の姿と愛のない結婚に蝕まれ、うつ病のような状態で亡くなっていきました。

子供ができることはありませんでしたが、カルロス2世は38歳まで生き抜くことになります。周囲の予想に反して寿命を全うし、39歳になる数日前にマドリードにて亡くなったのでした。

まとめ

度重なる近親婚の末、誕生したカルロス2世見た目にも、また知能的にも国を統治することができないほど影響が出ていました。子を残すことはありませんでしたが、周囲の予想に反して長生きをし、38歳の生涯を全うすることになったのでした。

異端や異教を排除して、『高貴な青い血』と呼ばれる純血を重んじ、同族での結婚が繰り替えられた果てにうまれたのがカルロス2世だったといいます。彼はふたりの王妃を娶るも、子供を残すことはありませんでした。ときにその容姿や振る舞いは「呪い」だとされることもあったわけですが、自らの存在をもって同家にかけられた呪いを終わらせる役割を担っていたのかもしれません。

この記事を読んだ人へおすすめの記事

スポンサー広告
管理人

歴史オタクの英日翻訳者。

スペインの児童書「ベラスケスと十字の謎 」に魅了され、世界史に夢中に。読み漁った文献は国内外あわせて100書以上。史実をもとに、絵画や芸術品の背景にある人間ドラマを炙り出します。

Naaya Alexisをフォローする
ハプスブルク家
Naaya Alexisをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました