2. しかし夫アンリ2世は20歳上の寵姫ディアーヌに夢中、妃は虐げられることに
3. 夫の死が転機となり、最後は宮廷の主導権を握ることとなった
中世のフランスにおいて、国王は寵姫 (ちょうき) を作る自由が与えられていましたが王妃は不遇な立場に置かれていました。当時の結婚において、国王の妃となるのは、身分の高い王族や大貴族の娘などでした。
カトリーヌ・ド・メディシス
(アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの結婚を描いた絵画
Supplied via Wikipedia)
今回ご紹介するのはフランス国王アンリ2世の妻、カトリーヌ・ド・メディシスです。
彼女はわずか13歳でフィレンツェのメディチ家からフランスのアンリ(後のアンリ2世)に嫁ぎました。しかし、彼女の宮廷生活は華やかどころか、まるで地獄のようなものでした。
愛されない王妃カトリーヌ
(ディアーヌ・ド・ポワチエ
Supplied via Wikipedia)
カトリーヌが嫁いだフランス王アンリ2世には、20歳年上の寵姫ディアーヌ・ド・ポワチエがいました。ディアーヌはアンリが子供の頃から教育係を務めた人物で、彼の心を完全に掴んでいました。
ともかく彼の心は完全にディアーヌにあり、カトリーヌには全くといっていいほど興味すら示さなかったのです。
彼女の役割は、世継ぎを産むことだけでした。カトリーヌは結婚しても夫からの愛情を受けることなく、豪華絢爛な宮廷の中で、孤独な生活を送ることになります。
華やかな宮廷の裏での苦悩
ディアーヌはその美しさを保つために、自己管理を徹底していました。冬でも冷水浴を欠かさず、乗馬を楽しむなど、アンリの寵愛を維持するための努力を惜しみませんでした。
一方、カトリーヌは1544年から7人の子供を産みましたが、その子供たちはすぐにディアーヌの元へ送り込まれることとなったのです。
宮廷では、ディアーヌに多額の贈り物や領地が与えられ、その地位は揺るぎませんでした。対照的に、カトリーヌは僅かな王室費を受け取るだけで、多くの負担を抱えながら耐える日々が続きました。
転機と復讐の日々
転機は1559年に訪れました。
アンリ2世が騎馬試合で重傷を負い、その後亡くなったのです。カトリーヌはその時、夫のそばを離れず、ディアーヌが近づくことを禁じました。
アンリは亡くなるまでディアーヌの名を呼び続けましたが、その死によって宮廷の力関係は一気に変わっていくことになります。アンリ2世の死後、カトリーヌはついにディアーヌを宮廷から追放しましたが、彼女の財産や命を奪うことはありませんでした。
カトリーヌはシュノンソー城を手に入れましたが、これはディアーヌが所有していた城と交換する形で平和的に行われたものでした。13歳で宮廷に嫁いで以来、カトリーヌはいつも冷静に行動し、直接的な復讐を避けることで、宮廷の主導権を握ることに成功したのです。
母としての苦悩と最後の時
(カトリーヌ・ド・メディシス
Supplied via Wikipedia)
カトリーヌの子供たちは次々と王座に就きましたが、不幸にも彼らの多くは若くして亡くなってしまいました。母としての苦悩は続き、息子のアンリ3世を皇帝の座に就けたものの、彼を完全に支配することはできませんでした。
彼女は子供たちとの関係も軋轢が絶えず、常に孤独と苦悩を抱えながら生き続けました。
1589年1月、カトリーヌは69歳で胸膜炎によりこの世を去りました。
まとめ
人生の多くを愛されない妻として過ごし、宮廷の権力争いに巻き込まれ続けたカトリーヌ。
ぱっとしない容姿もあり、夫とその愛妾に虐げられ続けた人生を送ったカトリーヌ。しかし憎悪に身を任せるわけではなく、賢明に静かにフランス宮廷に君臨しつづけ天命をまっとうした女性でありました。
しかし最後まで冷静に貫き、主導権を取り戻した強き女性、その波乱万丈の生涯は、フランス宮廷における重要な歴史として語り継がれています。
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