- フランス革命時、アントワネットにはマリーとルイという二人の子供がいた
- 王太子ルイ・シャルル (ルイ17世) は牢獄に閉じ込められ、残酷にも獄中死
- 長女マリー・テレーズは、失語症のような状態に陥るも唯一生き残った
赤字夫人と呼ばれフランス国民に殺されることとなったマリー・アントワネット。フランス革命が起きると一家は亡命を企てますが、捕まって投獄。夫ルイ16世と元王妃は断頭台へと送られることとなりました。
しかしその時、夫妻には、2人の子供が残されていたのです。
残された王女マリー・テレーズと王太子ルイ・シャルルはその後どうなったのか、この記事では切ない仕打ちを受けたマリー・アントワネットの子供たちの行方を追っていきます。
アントワネットの子供たち
7年の間夫婦には子供ができず、はじめて子供が生まれたのは8年後のことでした。
最初にうまれたのは王女マリー・テレーズ、皆がのぞんだ後継者ではなくともようやく母になったアントワネットは娘との幸せな時間を享受しました。
3年後には、待望の王太子ルイ・ジョセフが生まれます。そして、さらに2人と子宝に恵まれた国王夫妻。しかしアントワネットとルイ16世の子供たちの幸せな時間は、ほんの束の間のことでした。
早逝した長男と末娘
成人したのは長女マリーだけで、長男は結核にかかって7歳で亡くなり、末娘のソフィーは1歳にもならないうちに早逝してしまったのです。
長男が亡くなったため、次男のドーフィン、ルイ・シャルルが王位継承者となりました。これがのちにルイ17世として王党派に担がれることになる男の子ですね。
しかし新たに王太子となったルイ・シャルルには惨い最後が待ち受けていたのです。
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はじまったフランス革命
やがてフランス革命がはじまると、国王一家ははヴェルサイユから追放され、テュルイリー宮殿にて監視状態におかれることとなりました。この時、残っていたマリー・アントワネットの子供は、
- 長女のマリー・テレーズと、
- 王太子となった次男ルイ・シャルル
この下の絵画に描かれている二人ですね。
一家揃っての投獄
いよいよ事態が絶望的になった1791年6月、ルイ16世は亡命を企て、ロシア貴族の従者と家庭教師の格好をした王と王妃は、子供をつれフランス脱出を試みました。
これが、世にいうヴァレンヌ事件です。
しかし甘すぎた計画により、国外への逃亡は失敗に終わります。
ベルギーの国境近くの町ヴァレンヌで捕まった国王一家はパリへと連れ戻され、叔母エリザベス(※)とともにタンプル塔に投獄されることになります。ヴェルサイユ宮殿での贅沢な生活に慣れているこの家族にとって、ここは湿気もひどく恐ろしい場所でした。
残された子供達の行方
最初のうちは家族一緒に過ごせた一家でしたが、ことはそううまく運びませんでした。父ルイ16世や母マリー・アントワネットと次々に断頭台へとおくられ、子供たちをみていた叔母エリザベスも処刑されてしまったのです。
君主制は1791年にすでに廃止されていましたが、革命派は「残された元王太子のルイ・シャルルをどうするべきか」を考えあぐねました。
そのとき、王党派はすでに彼が『ルイ17世』だと主張しており、もしシャルルが彼らに奪われたら争いになりかねない状況でありました。
1793年7月3日、ルイ・シャルルはわずか8歳で、家族から引き離され地下牢へといれられてしまったのです。そうしてひとり、またひとりといなくなり、タンプル塔の部屋に残されたのは、長女のマリー・テレーズだけでした。
ルイ17世に対する惨い仕打ち
両親は早々に処刑されたわけですが、ルイ・シャルルは4年もの間、独房に閉じ込められていました。存在は無視され他の人々とはほとんど接触がなく、母親と叔母のエリザベートが処刑されたことも知らされていませんでした。
彼は『王の子孫』というだけで罰せられ、殴られ屈辱を受けることになります。衛生状態がよくなく身体は汚れ病気になり、それでも部屋が掃除されることも自分で服を洗うこともできませんでした。
弟をどうか、助けてください
という姉マリー・テレーズの意見は完全に無視され、最後はもう話すことも、動くこともできなかったといいます。ルイ17世ことルイ・シャルルは、4年近く独房で過ごした後、1795年6月8日に10歳で亡くなったのでした。
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生き残った王女
この間マリー・テレーズは、弟が幽閉されている塔の上の階に閉じ込められており、弟と話すことも会うことも許されませんでした。しかし、彼女はマリー・アントワネットの子供のなかで唯一フランス革命を生き抜いた子供でもあります。
1792年8月から1795年12月まで、マリー・テレーズは塔に閉じ込められており、家族が次々と連れて行かれるのをただ見ていることしかできませんでした。
階下で弟のルイ・シャルルが殴られ泣き声が聞こえるなかで過ごし、2冊しか持っていなかった本を何度も読み返したといいます。
マリー・テレーズのその後
17歳の誕生日彼女は、叔父であるハプスブルク皇帝フランツ2世の囚人と交換する形で開放。母の故郷である、ウィーンへと移りました。
彼女の両親であるルイ16世とマリー・アントワネット、唯一残っていた弟ルイ・シャルルは全員亡くなっていました。そして、彼女が若い頃から知っていた人々のほとんども亡くなっているか亡命中かでひとりぼっちでありました。
1799年、マリー・テレーズはいとこのルイ・アントワーヌと結婚します。
1814年フランスで王制が復活し、ルイ18世(※)が王位についたとき、彼女はようやくフランスに戻ることができたのでした。 (※ ルイ16世の弟)
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まとめ
しかし情事に巻き込まれたマリー・テレーズが『王妃』としてフランスに戻ってくることを誰が想像したでしょうか。ブルボン王朝の復興を手助けするために、彼女はいとこのルイス・アントワーヌ (父ルイ16世の弟の子) と結婚しました。
浪費癖の激しかった母とはちがい、娘は王太子妃の身分となっても45人の使用人しか雇わず、質素と倹約を貫いたといいます。
マリー・テレーズ、彼女はマリー・アントワネットの子供のなかで唯一天寿を全うした女性でした。父母への恨みを持つ人はいようとも彼女が国民に慕われたのは、彼女の行動が飢えや苦しみや恐怖を理解した上に成り立つものだったからかもしれません。
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