歴史を振り返れば、生活必需品の統制をめぐって数々の激しい戦争が行われました。水や塩、貴金属、あるいは石油さえもが火種となってきましたが、獣脂が原因で18ヶ月間にもわたったこの戦いほど残酷なものはありませんでした。この記事では、大英帝国の発展の助力となった『イギリス東インド会社』のインドでの統治をみていきたいとおもいます。
大英帝国と東インド会社
東インド会社とは、アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社です。
帝国下では、経済活動に極めて大きな役割を果たしました。当時イギリスの東インド会社はインドで150年にわたって商取引を行い、非常に強力な地盤を固めていました。そのため、1830年代にはその独占(完全支配)の終焉を他の会社がつよく望むようになっていたのです。
イギリスは勢力を拡大し、1843年にはインドを、1849年にはパンジャブを支配下におさめ、その植民地はヒマラヤ山脈のふもとの丘陵地帯まで広がっていました。この話は、北西の国境にむけて、ロシアが勢力を拡大しつつあることに懸念を抱いたイギリスが、黒海の支配をめぐってロシアと戦ったクリミア戦争を1856年に終わらせてまもない頃のことでありました。
大英帝国のクライマックス
1850年代は、のちに帝国主義として知られる黄金時代のはじまりだったといわれています。
イギリス政府は、大英帝国の”王冠に嵌め込まれた宝石”とも呼ばれるインドから多くを得たい、と望んでいました。そのひとつは “威信” です。ここで取り上げる反乱から20年もたたないうちに、ヴィクトリア女王は自らを『インド女帝』と宣言します。これがおそらく大英帝国のクライマックスだったのでしょう。
もうひとつは”金銭的なもの”でした。とくに東インド会社自体は、イギリス政府からもっと資金を供給するよう重圧をかけられていました。当時アメリカは独立してはいたものの、これといって脅威ではありませんでした。のちに南北戦争へと発展する国内問題で混乱に陥っていたからです。西ヨーロッパは比較的平和なものでした。
最強のヴィクトリア時代
(参考:ヴィクトリア朝をわかりやすく解説 (階級社会と植民地編))
ナポレオンは打倒され、ドイツはまだ国としては存在していませんでした。ヴィクトリア女王の繁栄の治世と絶対的な自信は最高潮になっていたのです。確かに「ブリタニア」が「大海原をおさめ」ていたのです。インドの王たちやマハラージャたちには、権力をイギリスに差し出すとともにかなりの税金が次第に重くのしかかっていきました。
1848年から1854年の間に十数箇所の独立地域が併合されますが、その大半は、土地の強奪と大差ありませんでした。
ヴィクトリア教育
(参考:ヴィクトリア朝をわかりやすく解説 (階級社会と植民地編))
有名な歴史家トーマス・ハビントン・マーコリーは1833年と35年に、インドに関する議論でイギリスの国会に対して2本のスピーチをおこない、この問題をはっきりと詳しく説明しています。
膨大な数にのぼる東洋人の間に、ヨーロッパ文明を普及させることから得られる利益を見積もるなど、まず不可能だ。ー文明人との交易は、野蛮人を支配するよりも遥かに儲かる。無益で金ばかりがかかる従属関係では、彼らを我々の奴隷でいさせておくために、1億人の顧客創出を妨げることとなるだろう。
とはいえ、我々の資力は限られており、大勢を協力しようとするのは不可能だ。現時点では、我々と我々の支配する無数の人々との間で通訳となれる種類の人間、つまり血筋や肌の色はインド人だがイギリス人の好みや意見、道徳心、知性をもった人間を作り出すことに全力を尽くさなければならない。
宗教抑圧が起こした『インドの大反乱』
こういった (ある種押し付けがましい) 教育観念は、1850年代にはすでに表面化していました。
主なものは、最もイギリス人に無縁なヒンドュー教の風習に対する攻撃でしょう。「夫の死後に未亡人を火炙りにする」サティーという慣習がとくに槍玉に上がり、この慣習の撲滅で地元住民の間には動揺が広がりました。しかしこれらがすべて呼び起こしたのは敵意くらいのもの。
結果的にとんでもなく無神経な行為で、イギリス人がインド大反乱と称するものを誘発したのです。インド人はこれを『第一次インド独立戦争』と呼びますが、現在は『インドの大反乱 (セポイの反乱)』と呼ばれることが多いです。最近では「内乱」と表現しても差し支えないでしょう。
インドに駐留するイギリス軍兵士の数は1857年にはすでに4万人に達していたため、これほどの規模の地域と住民を制圧するには到底足りませんでした。そこでイギリスは、約20万人の現地人を訓練して陸軍を編成しました。これがいわゆるセポイ (傭兵) です。
現地住民への侮辱
リー=エンフィールド銃は、戦争史上もっとも有名な武器のひとつでしょう。この名前は工場のあったエンフィールド (ロンドンのすぐ北)と、設計者であるスコットランド生まれのアメリカ人発明家ジェームス・パリス・リーに由来します。ボルトアクション式連発銃の開発を可能にした箱弾倉も、彼の設計によるものでした。
イギリス陸軍がリー=エンフィールド銃を世界中で使用しようと配備した1850年代には、この銃はまだ発展途上にあり、弾薬を手動で装填する必要がありました。その際、油を塗った実包の端を噛みちぎるのですが、その脂として製造業者が使っていたのが豚脂や牛脂でありました。
イスラムの禁忌にふれて
もちろん、豚はイスラムでは禁忌となっています。
そしてご存知の通り、牛はヒンドゥー教にとって聖なる動物です。もしもマコーリーの傲慢なインド文化軽視に大して注意が払われず、この問題についてもう少し配慮がなされていたなら、のちの出来事を避けられたかもしれません。こうした宗教的心情が秘密にされていたとは到底考えられないのです。
イギリス陸軍は『現地人兵士』たちが、大英帝国のみならずイギリス軍人の家族も守ってくれると期待していましたが、彼ら現地人兵士の暮らしと信仰の重大な事実を見過ごしていたのでした。
やまない反乱
1857年前半の数ヶ月間にわたり、小さな反乱が英領インド全土で発生。5月には、実包を噛むことを拒んだ兵士たちが収監されるようになっていました。最高司令官ジョージ・アンソン少将は、この難局に対して「奴らの汚らわしい偏見などに私は決して屈しない」と述べ、譲歩を拒んだのでした。
5月10日、メーラトの第3軽騎兵連隊の面々が投獄されます。すると、看守役として招集された第11連隊と第20連隊が、部隊長に楯突いて同胞を解放。いきなり大混乱へと陥ったのです。インドの各連隊が、さらには国王 (インドの貴族) たちも暴動に加わりました。インド軍は6月にカウンポールでイギリス人家族を虐殺し、ラクナウの包囲は恐怖の2ヶ月間に及びました。
その月、アンソン少将はデリーでインド人反逆者の元へと行軍中にこれらで死亡します。反逆者に対するイギリスの復讐はじつにすさまじく、囚人は絞首刑に処せられました。大砲の前にくくりつけられて発射させられた者もいました。
イギリス東インド会社の解散
1857年の終わりにはすでに反逆者側の敗北の色が濃くなっていましたが、大英帝国の巨大な勢力を考えれば、最後までよく戦ったといえるでしょう。血みどろの戦いで無数の命が失われ、1858年7月8日に和平協定が調印されてようやく復讐は終結。イギリス側の死傷者は軍人と民間人をあわせて約1万1,000人にのぼりました。国土の大半が荒廃し、膨大な債務がふりかかります。
イギリス東インド会社は、当初は香辛料貿易を主業務としていましたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行うインドの植民地統治機関へと変貌していました。
同社はセポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し1858年に解散に至りました。東インド会社による代理支配をもはや信用できなくなったイギリス君主は1859年、インド全体の直接支配を確立した形となったのでした。
まとめ
イギリス東インド会社の活動はインド社会だけではなく、イギリスの社会・経済にも大きな影響を与えました。金融面ではイギリスにおける株式の取引が行われるようになったことであり、経済面では「キャラコ熱」がイギリスにおける産業革命をもたらしました。さらに、社会的にはネイボッブと呼ばれる新しい層が台頭したことにあった。
ネイボッブとはナワーブに由来する語で、18世紀から19世紀にかけてインドで大金持ちになって帰国したイギリス人、いわゆるインド成金のことである。
そのさきがけは、17世紀後半から18世紀前半にかけてダイヤモンドの採掘で財をなしたトマス・ピットでありました。1710年以降トマス・ピットはインドでの収益をもとに、イギリスの各地で土地を買い、また何度も国会議員になります。プラッシーの戦い以降、インドで財をなす人々が増えたが、彼らのイギリス国内の評判は芳しいものではなかったようです。ネイボッブは腐敗選挙区で国会議員に選出され、議会では1つの圧力団体となりました。
歴史は勝者が描くものですが、大発展の裏には、虐げられた人々や不都合な真実がよくよく眠っているということを象徴するような出来事でありました。
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