18世紀のロシアはまさに『女帝の時代』。変革者 ピョートル大帝が亡くなると、再び玉座をめぐる争いが起きました。最終的に女帝の座についたのは、ピョートルの娘エリヴェータ。彼女が後継に指名したのは、自分と同じく大帝の血が流れている姉の息子 (ピョートル2世) でした。しかし実際にドイツからやってきたピョートルはパッとせず、とても任せられない…..
(ロマノフ王朝 家系図)
そこで孫に望みを託すことにし、皇太子妃として招かれたのが、小柄だけど頭脳明晰のドイツ人キャサリンでした。のちに夫と命をかけ争い玉座を奪い取るこの女性こそ『将来のエカチェリーナ2世 (旧名キャサリン)』です。この記事では、この努力と人望でのし上がったエカチェリーナの人生をみていきたいとおもいます。
誰よりロシア人の皇太子妃
キャサリンが妃に選ばれた理由
(若き日のエカチェリーナの肖像画 旧名キャサリン)
もちろん決めたのは、継母であり、ロシア女帝のエリザヴェータ。着飾った女帝とは真逆で、地味で見た目もごく普通のエカチェリーナ。ドイツらしい勤勉さと、賢明さも持ち合わせている彼女はエリザヴェータにはとても好ましく移ったのです。一方エカチェリーナにしても「貧しい田舎で一生を終えるのは嫌だ」とこの幸運ともいえる縁にかけていたわけで、見事に利害が一致したといいますか。そうしてピョートルとエカチェリーナの婚姻はスムーズに勧められていったのでした。
しかし皇太子には愛されず
(ピョートル3世とエカチェリーナ 皇太子夫妻と小姓)
頼りないピョートルであっても、賢明な妃との間にできた孫はまともかもかもしれない。エリザヴェータがしいた妃へのいちばんの条件は「健康な世継ぎを産めること」でした。つまるところ、妃選びにピョートルの意思はまったく反映されておらず、そのせいか、ピョートルはエカチェリーナを気にいることはなく、さっさと愛人を作ってしまいます。
女帝エリザヴェータは2人にたいして「早く世継ぎをもうけなさい」と命じますが….ピョートルは何のその二人の間に子供ができる気配はなく。女帝の機嫌は悪くなり、 エカチェリーナにとっては居心地の悪い時間がつづくことになりました。
血が滲む努力の果てに
努力したドイツ人女性
(エカテリーナ大公妃アレクセイエヴナの結婚式前後の肖像)
さて、田舎ドイツからロシア皇太子になれたはよかったが、どうしたものか。どうやら皇太子は自分のことでは好きではないらしい。しかし彼女はそんなことではめげることはなく、
- ロシア史や、ロシア正教を学び、ロシア人になりきる努力を怠らず、
- 女帝エリザヴェータには従順にふるまいながらも、
- コツコツと味方を増やしていきました
エカチェリーナの味方は主に軍のなかにおり、『皇太子派』と呼ばれていました。そして9年目にして、ようやく待望の男児を出産することに成功しました。
みっちり帝王教育
(ロマノフ王朝 エカチェリーナ周辺の家系図)
ようやく生まれた世継ぎに女帝エリザヴェータは大喜び。「本当に皇太子の子供か」と疑う声もあったようですが、肖像画をみるとピョートル2世に似ていますね。生まれた子 (パーヴェル) はすぐにエリザヴェータの元へ運ばれ、彼女の元で帝王教育が施されました。
男児がうまれたことで、エカチェリーナの立場は安泰となりますが、自分の子供にあうにしても女帝の許可が必要でした。そこでも彼女は気を緩めずに従順にふるまい、女帝に従いました。なんと強靭な精神の持ち主、また、それで持ち前の勤勉さを失うこともありませんでした。(勝手につれだしたあげく、赤子を死なせてしまったシシィとは正反対… )
どうしようもない皇太子
どうしたものか、ピョートル3世
しかし夫婦にはバランスというものがあるのか、どうしようもなかったのは、夫ピョートル3世。
- 皇太子はあまりロシア語が話せず、
- まるで女帝に反抗するかのようにドイツを崇拝
していました。彼はとくに新興国プロセインの君主フリードリヒ大王に憧れており、ロシアはさておき真似をして、プロセインの軍服を着用したりと相当な崇拝ぶりだったそうです。ドイツ人だけの軍隊を作るなど、周りは呆れ果て、そんなときにあの女帝エリザヴェータが亡くなりました。1961年のことです。
使えないピョートル3世、命がけの夫婦喧嘩
エリザヴェータに代わって、ツァーリ (ロシア皇帝) となったピョートル3世。いったいどんな治世になるのかと思いきや、想像通り….いや、それ以上にボロボロ….。新興国プロセインから自国を守るため、フランス、オーストリアと築いた包囲網をさっさと放棄し、憧れのフリードリヒのためにロシア軍を徹底させる始末。大王から「感謝」の言葉をもらい、鼻高々になるも、ロシア国内からはあふれんばかりの批判が湧き起こりました。
エカチェリーナの台頭
ドイツかぶれのツァーリはいらない
(7月9日の冬の宮殿のバルコニーにあらわれるエカチェリーナ)
調子に乗ったピョートル3世は、妻エカチェリーナの追放を考えます。しかし長年コツコツと味方を増やし続けたエカチェリーナ、廷臣からの信頼は厚いものとなっていました。ここでついに、大帝の血を引くツァーリの軍と、妃が率いる軍がぶつかります。結果『皇太子派』と呼ばれた軍に、ピョートル軍は破れピョートルの治世は半年で幕を閉じました。
ロシアのことを小馬鹿にしてドイツに執着するツァーリより、血を引かなくてもロシアのことを想う女帝のがよっぽどいい。かくして、エカチェリーナの努力はついに花を咲かせ、彼女は女帝エカチェリーナ2世として即位することになりました。
ロマノフ王朝における、最高の女帝
(ロシアの民族衣装を着たエカチェリーナ2世)
エリザヴェータが見抜いた通り、エカチェリーナはとても聡明な人物で、「ロマノフ王朝における、最後にして最大の女帝」と呼ばれるほど、賢明な統治者となりました。広大な領土拡大が有名どころで、ロシアの財源を大幅に増やしました。
またエカチェリーナは、ロシアの教育システムを改善することを目的とし数多くの本やパンフレット、教材を作成。芸術の擁護者でもあり、ヴォルテールや当時の他の著名人と生涯にわたって文通を続け、サンクトペテルブルクの冬の宮殿(現在のエルミタージュ美術館)には、世界で最も印象的な芸術コレクションをつくりました。
まとめ
(エカチェリーナ2世 晩年の肖像画)
歴史家からの彼女の評価は高く、ピョートル大帝の実子であるエリザヴェータを抜き彼女の治世は優れていたといわれています。ドイツから嫁いできた小柄な女性は、自らの知性と強靭な精神をもって国を治めるまでになったのでした。
エカチェリーナが危機をおぼえたのは、「エリザヴェータの隠し子 (皇女) 」を自称しヨーロッパを渡り歩いたタカラノーヴァがあらわれたときです。政敵に利用されるのを恐れ、エカチェリーナはタカラノーヴァを殺害しました。親族であっても玉座をかけて殺しあったロシアですが、夫に命を狙われて以来そういった陰謀はとくになく、エカチェリーナは67歳でその生涯をとじました。周りに翻弄されず、どんなときでもできることを淡々とすすめた彼女、エカチェリーナの人生は幸運というより作戦勝ちといった感じでしょうか、何事も準備が肝心なのかもしれません。(エカチェリーナに危機を抱かせた女性についてはこちら 【皇女タカラノーヴァ】脅える主人公、麗しき美女の正体とは にまとめております)
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