ミュージカルがヒットしたことで、愛らしいエリザベートを虐める姑として、悪役のイメージが定着してしまった継母ゾフィ大皇妃。しかしそれはあくまで一部であり、帝国の臣民たちが密かに「宮廷内のただ一人の本物の男だ」と評していたほどに、ゾフィは傾きかけたハプスブルク家において大きな役割を果たした立派な王妃でした。この記事はエリザベートの姑、ゾフィの生き様と功績についてみていきます。
知的な美女、バイエルン王の娘にうまれたゾフィ
(ゾフィと双子の姉マリア・アンナと妹ルドヴィカ)
バイエルン王の娘ゾフィーは黒みがかった瞳と薔薇色の肌、ほっそりしたスタイルの良い体つきをした、大変な美少女であったといわれています。この美貌は肖像画に描かれ、肖像画は異母兄ルートヴィヒ1世がニンフェンブルク宮殿内に作った美人画廊に飾られました。
(『ソフィ大皇妃』シュティーラー(1832年))
オーストリア皇帝との、望まぬ縁談
ゾフィの父 (バイエルン王) とフランツの父 (オーストリア皇帝) は、両家の将来のために重要な縁組を画策します。そして白羽の矢がたったゾフィと、フランツ・ヨーゼフの見合いの場がつくられたのです。
ゾフィーにとって、未来の夫との最初の出会いはひどくショッキングなものでした。フランツ・カールは不器用で容姿も地味な青年で、狩猟パーティの最中に一度だけ交わした会話もゾフィが気に入る内容ではありませんでした。「見所があるといわれていたのに、これではあまりにたよりない」それはバイエルン国王夫妻も娘を気の毒に思ったほどだったといいます。しかし外交上必要なことと割り切り、この縁組は成立する運びとなったのです。
19歳で、ハプスブルク家へ嫁ぐことに
(ソフィー大公爵夫人 ジョセフ・クリーフーバーのリトグラフ、1836年)
ゾフィは19歳の時に、『フランツ・カール(ハプスブルク家の次男であり次期皇帝である)』の元へ嫁ぎました。当時のハプスブルク家は、ナポレオンに散々かき回されたあとでした。
オーストリアと少しばかり残された周辺国をかき集めて帝国の体裁だけはとりつくろい、ウィーン宮廷は過去の栄光にすがって堅苦しい作法が幅をきかす、傾きかけた危うく脆いものでした。(参考記事:【稀代の英雄ナポレオン】夢あり地獄ありのカリスマ君主)
莫大な持参金をもって、オーストリアへ
(ゾフィの父 マクシミリアン1世の肖像(1756-1825))
ゾフィーは嫁入りに際して綱のついた長櫃に、ミュンヘンのファッションデザイナーに作らせた最新の流行のローブを沢山詰め込んで、ウィーンへ輿入れしました。「意思の強い知的な美人」といわれたゾフィ、夫は心身脆弱で不甲斐なくどのような気持ちで嫁いだのか。
ゾフィーは莫大な花嫁持参金をつけて送り出されたため、ウィーン宮廷でも貧しい田舎娘と見なされることはありませんでした。装身具に関しても父マクシミリアン1世は宝石鑑定の専門家と相談しつつ、娘に最も相応しいものを選んで与えたといいます。
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宮廷にはいって苦労したのは、継母ゾフィも同じ
(ゾフィーと長男のフランツ・ヨーゼフ、1830年頃)
一般的にシシィ (エリザベート) が虐められたことが知られていますが、宮廷生活はいり苦労したのはゾフィも同じでした。世継ぎをもたらすことを期待されたゾフィー は、幾度かの流産と療養を経て結婚後6年目にようやく長男のフランツ・ヨーゼフを出産します。
世継ぎをもうけたゾフィはの存在感はそこからようやく増していき、ゾフィは最終的に男児4人の母となります。転換点は彼女が42歳のとき、義理父であり現皇帝が退位したのです。本来ならばゾフィの夫カールが次の皇帝になるはずなのですが….
しかしゾフィは「この革命の嵐を乗り切るためには、若く颯爽とした皇帝が必要だ」として、18歳の息子フランツを皇帝の座につけたのでした。
皇妃の座より、王朝の未来をとった大皇妃ゾフィ
(皇位を継承したフランツ・ヨーゼフ1世(1848年12月2日))
かんたんにいうと、義理父オーストリア皇帝が亡くなったあと、皇帝の座は子供フランツ (ゾフィの夫) をすっ飛ばして、孫のフランツにわたったわけです。
「皇妃になりたい」という思い嫁いできたゾフィでしたが、未来のことを考え、私情を排除しハプスブルク家の未来を優先したのでした。これが「宮廷内のただ一人の本物の男だ(den einzigen Mann bei Hofe)」といわれる所以かもしれません。
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ゾフィーは本当に、悪役だったのか
(ゾフィー大公妃、ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1830年)
姑ゾフィから見た、息子の嫁 エリザベート
(Wikiミュージカル『エリザベート』より引用 ポスターのモデルとなった肖像画)
私情を排除してハプスブルク家の立て直しに力を注いできたゾフィとしては、“真反対で自由奔放なエリザベートは目に余る存在”だったのでしょう。
- 皇妃として何の教育も受けておらず、
- 世継ぎを授かるも、反対を押し切って長旅に連れ出し死なせてしまい
- 皇族の務めを嫌がって宮廷行事からは逃げ回り、
- 国外旅行と、自分の美容にばかりお金をかけるのですから
(エリザベートの肖像画)
ゾフィにとっては大切な世継ぎを頼りない嫁に任せるのは不安だったでしょうし、エリザベートにしてみれば愛おしい我が子をこの手で育てられないことは悲しみでしかなかったでしょう。よくある嫁姑問題といいますか、お互いの気持ちがぶつかり、夫フランツ・ヨーゼフはなにもいえなかったようです。(参考記事:【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベート)
大皇妃ゾフィがハプスブルク家に残した功績
フランツ・シュロッツベルク:大公爵夫人ソフィー、油絵、1858
ソフィーは、かつて期待していたような皇后にはなりませんでした。しかし、息子フランツが皇帝の座についたことにより、かなりの政治的影響力を得ることにはなりました。息子のフランツ・ヨーゼフは、君主としての使命感に浸り、革命によって縮小された権力を取り戻そうと躍起になっていましたが、政治的経験が浅かったため、エネルギッシュな母親を心の支えを頼りにしていました。
(ゾフィの息子 フランツ・ヨーゼフ 後にエリザベートを王妃に迎える)
息子のフランツは母の政治力を信じ、生涯従順に振る舞ったといいます。ただし、エリザベートを皇后へ迎えることをのぞいては…
ハプスブルク家の女神であり、自由主義の敵
ゾフィは日常の政治的意思決定に公然と介入したわけではありませんでした。しかし、政治における事実上の意思決定者は彼女でした。秘密の女帝としていつも、皇帝である息子の影にいたからです。
(1861年撮影のオーストリア皇帝一家)
傾きかけたハプスブルク家を持ち直させ、孫の皇太子も無事に育ち先の安泰を見せたゾフィ。しかし君主制 (世襲の君主が主権をもつ政治形態) を反対し、自由主義力を支持するひとにとっては憎むべき対象でもありました。1861年に撮影されたこちらの写真ですが、中央に座っているのがゾフィー大公妃です。
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あとがきにかえて
(Erzherzogin Sophie im Kreise ihrer Familie)
そんなゾフィの晩年は悲しいものでした。マクシミリアン一世としてメキシコへ赴いた次男は、革命軍により処刑。時代は確実に君主制から、自由主義 (民主制) に向かっていたのでしょう、以来ゾフィは急速に弱り、67歳で亡くなりました。1872年5月のことです。
ゾフィは肖像画の数々から見て取れるように、美しいだけではなく、意思が強く賢い女性だったそうです。こういった時代的背景も含めてミュージカルを見ると、また新しい発見があるかもしれませんね。(義理娘エリザベートについてはこちらの記事:【ハプスブルク家 皇妃】シシィと愛された、絶世の美女エリザベートにまとめております)