史上名高い連続殺人者とされ、吸血鬼伝説のモデルともなったエリザベート・バートリ。彼女は「血の伯爵夫人」異名を持ち、その理由は何人もの女性を殺害しその血を浴びる、といった恐ろしい行為を行ったからだといわれています。この記事では、その生涯と、彼女が行ったとされる恐ろしい行為について深掘りしていきたいとおもいます。
エリザベート・バートリ
エリザベート・バートリは、16世紀のハンガリーの貴族家に生まれました。
1560年にハンガリーのトランシルヴァニア地方で生まれたエリザベート・バートリ、彼女は非常に裕福な家庭に生まれ、若い頃からその美貌故、王族や貴族からの注目を集めていました。彼女はいくつもの貴族の血筋を引いており、親戚にはポーランド王やトランシルヴァニア公もいました。
彼女は子供の頃から感情のコントロールができなかったり、重度のてんかん発作に悩まされていました。そういった背景には、一族が財産や権力を保つために重ねてきた近親婚の弊害があったともいわれています。彼女の両親は共にバートリ姓であり、血縁的にも近い間柄でした。
悪魔の治療
こういった病気を持っていたエリザベート・バートリ。
彼女の恐ろしい逸話の起源は、こういった奇病とされた病気の治療にあるといわれています。
幼少期について確かな証拠はありませんが、有名なのは、発作の治療のため、人の血を唇につけたり、人の頭蓋骨の一部を使って治療を行ったという説です。それによってエリザベートは血に執着を持つようになったという説や、それだけでなく、魔術を教えられ、悪魔崇拝を行っていた、といった説もありますが、確かなのは彼女は贅沢な生活を送っていたということだけです。
10歳になったエリザベート・バートリは、地域で最も裕福な貴族の出身であるフェレンツ・ナーダスディと婚約しました。家格はエリザベートのが高かったので、姓はバートリのままでした。
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おぞましい噂と告発
夫フェレンツからエリザベート・バートリへの結婚の贈り物は、カルパティア山脈の下端に位置する彼の家「チェイテ城」でありました。結婚式からわずか数年後、フェレンツはハンガリー軍の総司令官に昇進し、オスマン帝国との戦争に派遣されることになります。
エリザベート・バートリは家の財産を管理し、地元の人々の世話をするために残されました。彼女の任務には、困窮した市民への医療や助言の提供が含まれていたといいます。しかし、その間にエリザベート・バートリの悪評はみるみる広まっていくこととなります。
1602年から1604年にかけて、バートリの犯罪に関する噂は当局にとって無視できないものでありました。二人の公証人が任命されるのは1610年のこと、それまでに数百の証言が集められ、その内容は公証人を驚愕させるものでした。
10歳の少女たちはバートリに誘拐され、ひどく殴られたというのです。体を切り裂かれて凍死したり餓死したりした者もいたといい、一部の少女は熱湯で火傷を負ったとされており、顔の一部を食いちぎられた人をみたといった証言もありました。
血浴の真実
エリザベート・バートリーと聞いて思い浮かぶのは、血浴でしょう。
ある時、粗相をした侍女を厳しく叱ったところ、侍女は出血をし、その血がエリザベートの手の甲にかかってしまいました。その血をふき取った後の肌が非常に美しくなったように思えたエリザベートは、若い処女の血液を求めるようになったというのです。
侍女を始め、近隣の領民の娘を片っ端からさらっては生き血を搾り取り、血液がまだ温かいうちに浴槽に満たしてその中に身を浸す、という残虐極まりない行為を繰り返すようになり、その刑具として「鉄の処女」を作らせ、用いたというのです。
犠牲者は600人以上にのぼったといわれており、彼女の象徴するエピソードとして語り継がれていますが、おそらく、これは真実ではないといわれています。
こういった話があがったのは、彼女が死んでから1世紀以上経ってからでありました。またこのエピソードが公けになったのは、1729年イエスズ会の学者の著作が出版されてからです。彼女の裁判における証人の証言では、血浴について言及しているものはありません。これは完全に作り話か、言い伝えによる捏造だとされています。
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エリザベートの逮捕
証言の中には、内側に鋭い棘を生やした球形の狭い檻の中に娘達を入れて天井から吊るし、娘達が身動きするたびに傷付くのを見て楽しむこともあった、さらに身体の具合が悪いときには、娘達の腕や乳房や顔に噛み付き、その肉を食べたともいうものもありました。
1610年12月30日、バートリは4人の使用人とともに自宅で逮捕されることになりました。多くの目撃者は直接の証拠を提示することは出来なかったものの、バートリが行ったとされる行為について主張を掲げました。多くの使用人が情婦に対する凶悪な犯罪を自白しましたが、それも激しい拷問の後のことだったといいます。
エリザベート・バートリの社会的地位を考えると、公開裁判と処刑はあまりにも醜悪であると判断され、代わりに自宅軟禁が言い渡されました。彼女は生涯チェイテ城に留まり、1614年8月21日、狭い独房に閉じ込められたまま54歳で亡くなったといわれています。
陰謀論
エリザベート・バートリに関する逸話には諸説あり、「彼女は陰謀論に巻き込まれたのだ」という説もあります。当時のハンガリー領は、3分割に分けられ非常に混沌とした時代でした。一部はオーストリアのハプスブルク家によって侵略され、ハンガリー貴族であったバートリ家や、夫の出身であるナーダスディ家は侵攻してきた者にとってある種邪魔なものでもあったのです。
当時のハンガリー国王マーチャーシュ2世 (ハプスブルク家の) が、エリザベートの夫に対して抱えていた負債を帳消にし、また有力だったバートリ一族の権力を抑えるための陰謀であったとする説もあがっています。
いくつかの証言は精査されていますが、城の中で多数の少女の死体や瀕死の少女の遺体が発見された、という確かな証拠に異議を唱えることは難しい、ともいわれていますが、チェイテ城では医療行為が行われていたという説もあり、死体があるのは解剖が行われていたためで、エリザベートは陰謀に巻き込まれた犠牲者だったという説もあります。
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まとめ
「血の伯爵夫人」として、非常に残忍なイメージを持つエリザベート・バートリ。そのおぞましいエピソード故、吸血鬼などのモデルにもなったとされている彼女ですが、血浴説は後世に作られた捏造だといわれています。中世にあったとされる拷問道具「鉄の処女」は、若い女性の血を絞り取るためにエリザベート・バートリが造ったもので、流れ出した血は浴槽に注がれる細工がしてあったともいわれていますが、これもまた真実ではないといわれています。
若い娘達の皮膚をナイフや針で切り裂いたり、性器や指を切るといった、グロテスクな逸話が残されている一方、政治的な陰謀に巻き込まれた犠牲者だとする説も最近は濃厚になってきているエリザベート・バートリ。とはいえ、事情は分からずとも、彼女が住まうチェイテ城では死体が確かに発見されており、彼女の疑いを完全に晴らすことは今も、誰も出来ていないのでした。