皇妃エリザべート。姉へレーネのお見合いについて行ったところから彼女の人生は、大きく傾きました。バート・イシュルでのお茶会の席上で、皇帝フランツ・ヨーゼフが一目惚れした少女こそ、当時15歳のエリザベートだったのです。この記事では、なぜ彼女が悲しみの皇妃エリザベートといわれるに至ったのか、苦難に満ちた人生をおっていきたいとおもいます。
望まぬ結婚
のびのびと育った故郷バイエルンに別れを告げて、儀式ばったウィーンの宮廷へ嫁いだ時彼女は16歳。大公妃ゾフィーが姑となり、望まずとも厳しいお妃教育が行われることになったのでした。
『理想の皇后』であることを求められ、常に細かいこともチェックされ厳しい宮廷生活に耐えかねた若き皇妃は、ノイローゼ気味となり医者の進めで転地療養することとなります。マディラ島で本来持っていた自由な気持ちを取り戻した彼女は、その後宮廷のあるウィーンへと戻りました。
(新婚夫婦 フランツ・ヨーゼフとエリザベート)
縛られた宮廷生活
一目惚れして彼女を留め置いた夫フランツはすでに皇帝となり、帝国内に膨れ上がる民族問題に忙殺され妃に気をかける余裕はありませんでした。大公妃ゾフィーに頭が上がらないのはもともとだとして、エリザベートの立場は宮廷ではとても弱いものでした。
生まれた長女は姑に取り上げられ、それでも「自分で出来ます」とばかりに連れ出したあげく死なせてしまい、その後生まれたギーゼラとルドルフはあっさりとゾフィが育てることに。
現在でもエリザベートは「シシィ」と呼ばれ、「悲しみの王妃」「絶世の美女」として名高く伝説が語り継がれていますが、当時も気品と優雅さは群を抜いており、特に目が美しく魅力的であったと言われています。
あまりに違う理想と現実
夫フランツ・ヨーゼフは惚れた弱みで、彼女の望むものは何でも買い与えたといいます。しかし埋まらないのは彼女の寂しさの方でした。何を買ってもらえても、お腹を痛めて産んだ子供は姑に遠ざけられ、自由もなければしきたりに雁字搦めにされるばかり。あまりにちがう理想と現実に、エリザベートの心は瞬く間に壊れていきます。
厳しかった姑は34歳の時に高いし、心の楔が少し取り除かれたように見えましたが、依然として宮内庁とはそりがあわず、現実から逃れるように何かを求めてあちこちへと旅を続けました。
エーゲ海のコルフ島には別荘を建ててもらい、フランス、イタリア、スイス、イギリス、アイルランドなど各地を放浪し続けたのです。シシィ専用も旅行列車も存在しました。旅から旅へと移動を重ねる皇妃のために、豪華な内装が設けられていました。
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現実からの逃避
皇妃の旅行となれば、女官や食事係など随行員が50人にも及ぶことがあり、その経費は相当なものでした。どこかアントワネットを思わせる自由さとその振る舞い。退屈するのがいやなのだといって、あちこちを転々と、亡くなる10年ほど前からは常軌を逸することが多くなり、周りも手を焼くことが多くなったといいます。
美を保つための摂食障害、常に何かに駆り立てられるように動いてしまう彼女の内面には、果てしない孤独が募りそれは周りにも夫ですらも理解できないものとなっていました。
わたしはひとり、この世をさまよい歩く
人生の喜びも、既に昔のこと
心の友はどこにも見出せず、私を理解してくれる人もいなかった
(未来の魂へより抜粋)
エリザベートは、夫にも内緒で心のつぶやきを書き残していました。彼女が遺した何百という詩篇は、自分が死んだら60年後に公開するよう託したものでもありました。
エリザベートと摂食障害
彼女の美への執着は並大抵なものではありませんでした。
身長は172センチもあったのに体重は47〜50キロ、そしてウエストは驚きの50センチ。その身体を維持するために、常にダイエットと運動をかかしませんでした。
好物はミルク、チーズなどの乳製品。肉搾り器を使い、肉汁のみを摂取するなどしながら時に甘いものも食べ、またある日にはミルクだけ、果物だけなど偏った日もあったといいます。またボヘミアやハンガリーのミネラルウォーターが良いと聞いてはわざわざ取り寄せるなど、「美しさ」のためには妥協がありませんでした。
妻を見かねて夫フランツは、
栄養をきちんと摂って。
薬やミネラルウォーターに頼らずきちんと生活を正してほしい
と手紙を送りますが、エリザベートは聞く耳を持ちませんでした。長年積もり積もった心の空虚さが、彼女に残された「美」への執着をより強くしたのかもしれません。もちろん栄養など足りていませんから、エリザベートは栄養失調気味で骨粗鬆症となり、リウマチ、胃カタルに繋がってしまいました。
こだわりの美容法
また食生活だけでなく、エリザベートは当時出来うる限りの美容法を試していました。すみれのローション、卵黄のパック、仔牛肉のパックなどで顔の手入れをしていました。
また髪の長さは膝下まであり、髪結の担当が2時間かけて結い上げていたといいます。髪を洗うのは3〜4週間に1度、卵黄とコニャックが使われ、艶を保つためにひまし油やマカッサルオイルなどが使用されていたそうです。
自分の美しさを認識していただろう皇妃は、完璧な美を求めました。ただ皇妃にも弱みがあり、歯並びには自信がなくそれを隠すためにあまり口を開けなかったそうで、皇妃の声は聞き取りにくいと側近の間では沈黙の了解となっていました。
偏食も拒食症の一種であり、心因的な要素が大きいといいます。乗馬、水泳、フェンシングなどもおこない、とくに乗馬を好みそのためにアイルランドまで何回も出かけたそうです。早足であ何時間を歩くことも美容のために不可欠な運動で、とりわけ旅先では頻度が高く、女官のほうがついていけないほどでありました。
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政治的功績
ただ逃げてばかりと思いきや、エリザベートには生涯唯一政治へ介入し多大なる功績を遺した事実もあります。それが「オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立」です。
他民族国家であったハプスブルク帝国では、押さえ込まれていた各地の不満が高まり革命が起こるなど周りの国々とは一触即発の観を呈していました。
ハンガリーの独立に懸ける政治家アンドラーシと意気投合したエリザベートは、何度も夫フランツ・ヨーゼフに調停を勧め、ついには皇帝もそれに同意することとなりました。それには、当時生きていた姑大公妃ゾフィーも驚いたそうです。この二重帝国は「オーストリア帝室の、そしてハンガリー王室の」という意味を有し、カーウントカーと呼ばれて1867年に成立しました。
それぞれに60人ずつの議会をもち、そこから3人の帝国大臣が選出されました。ハンガリーの王は「オーストリアの皇帝が兼ねる」とはされていましたが、ハンガリー国民から愛されていたエリザベートの存在もありとても平和な融和でありました。
エリザベートはハンガリーの自由な気風を愛して、度々ブタペストを訪問していました。この画期的なオーストリア・ハンガリー二重帝国の成立は彼女が遺した唯一最大の功績であり、彼女なしでは決してありえないものだったのでした。
息子ルドルフの自死
(息子の死を嘆くフランツ・ヨーゼフとエリザベート)
「もう、死んでしまいたい」
息子ルドルフが30歳という若さで自分の命を絶ったのは、まもなくでした。ルドルフは成人したふたりの子供のなかで、性格がいちばんエリザベートに似ていたといいます。翌年には心の友であったハンガリーのアンドラーシ、姉のへレーネが続けて他界。また愛娘マリー・ヴァレリーが結婚したことで、エリザベートの心には暗雲がまたもや強く立ち込めてきました。
どのような美しい景色にも彼女の沈んだ心は癒されず、生まれたミュンヘンに戻り子供の頃の思い出にひたることも多くなってきました。エリザベートの体調は悪くなる一方で、リウマチも進み足には浮腫が生じて、消化不良もおこっていました。息子ルドルフが亡くなってからは黒服で通し、靴やバック、傘も全て黒でそろえ、精神的にはますます不安定になっていったのでした。
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エリザベートの最後
宮廷に馴染めず、最後まで自由を求めて旅を重ねたエリザベートの最後は、とても悲しいものでした。スイス、ジュネーブのレマン湖畔にたつホテルへ泊まったエリザベート。蒸気汽船に乗ろうとプロムナードを歩いていた皇妃が、鋭利なヤスリで心臓を一突きにされたのはその日でありました。
犯人はイタリアの無政府主義者であるルイジ・ルッケーニ。狙っていたフランスのオルレアン公がすでに発っていたため、このホテルに投泊していた皇妃エリザベートがターゲットにされたのです。
コルセットがきつかったため、すぐには出血せず、そのまま歩き船に乗り込んだところでエリザベートは女官の胸へ倒れ込みました。何が起きたのか本人もわからないまま、息絶えたエリザベート。享年60歳。宮廷に馴染めず、あちこちを転々とした彼女の最期はあまりにもあっけないものでした。
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まとめ
その後はフェルディナント1世の甥カール1世が皇帝となりますが、事態は好転することもなく。フランツ・ヨーゼフによってかろうじて支えられていた帝国は終わりを迎えることになるのでした。果たして普通の結婚ができていたら、エリザベートは幸せになれたのか、時期が少し早かったら、フランツではなく誰か別のものが皇帝の地位についていたのなら。
人生の岐路といえばまさに、姉へレーネのお見合いについていったときに運命がすっかり変わってしまったのでしょう。否、相手が云々よりいつだって人の人生は時代に左右されるもの。エリザベートの人生は確かに一筋縄にはいかないものでしたが、しかしこういった背景がなければ、彼女の肖像画や「悲しみの王妃」としてのストーリーがここまで語り継がれることはなかったのかもしれません。
ちなみにエリザベートの子孫が、今もこの世に存在しています。直系五世にあたる子孫マリー・ヴァレリー・ハプスブルク=ロートリンゲン。こちらは若い時の写真ですが、目元や笑い方が残されたエリザベートの絵画ととてもよく似ています。
現在はシュトレンベルクにて農場を夫婦で営んでいるとか。エリザベートが愛した自然のなかに、彼女の子孫は今もなお生きているのでした。
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