その美貌をおさめた肖像画と、哀しいエピソードで彩られた悲劇の皇妃エリザベート。ヴィッテルスバッハ家のマクシミリアン公爵家に生まれたエリザベートは、シシィの愛称で可愛がられ親しまれていました。元々エリザベートはバイエルンの野山を走り回る、いわばおてんば娘でありました。
自由気ままな生活から一転、皇帝が惚れ込んだのは、姉の見合いについてきていたエリザベートの方だったのです。溌剌とした15歳のシシィに一目惚れしたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフは出会った翌々日にプロポーズをし、エリザベートはその一生を『皇妃』として過ごすことになったのでした。長く語り部となる彼女は、一体どのような人生を歩んできたのでしょうか。この記事では、『皇妃エリザベート』にまつわる8つのエピソードをご紹介します。
エリザベートの輿入れ
1854年4月19日、エリザベートはミュンヘンで家族や多くの侍従たちと別れた後、北上してドナウ川へとむかいました。ドナウ河畔の街で汽船へと乗り換え、パッサウ、リンツを通って3日後にウィーンへと到着しました。船からおりたエリザベートは出迎えにきていた皇帝フランツ・ヨーゼフらとともに馬車でシェーンブルン宮殿へと向かいました。
宮殿では多くのハプスブルク家貴族たちがエリザベートへと紹介され、さまざまな行事が深夜まで続きました。長旅を終えたばかりのエリザベートは、延々と続く多くの儀式に心身ともに疲れ果ててしまいます。言うなれば、このウィーン初日が彼女の困難のはじまりだったのかもしれません。4月24日には、ホーフブルクのアウグスティーナ教会で結婚式が行われました。
孤独な新婚生活
しかし式典が終わり新婚生活が始まると、唯一の頼りであった夫フランツ・ヨーゼフは朝早くからそれこそ1日中、王宮の執務室にこもりっきりとなり、エリザベートはひとりぼっちとなりました。そんな彼女の相手をしよう、と気を利かせた姑ゾフィーは毎日エリザベートのところにやってきますが、逆に姑に監視されているような印象を与えてしまっただけでありました。
ゾフィーはエリザベートを気に入らず辛くあたったと伝えられていることが多いですが、実際は高く評価しており、ことあるごとにエリザベートがいかに美しく、気品に満ちて優雅な振る舞いをするかを満足げに姉たちへ書き送っていました。
姑ゾフィとの確執
ゾフィーは16歳という何事にも未経験だったエリザベートに様々なことを教え込もうとしたわけですが、娘時代を自由奔放に過ごしてきたエリザベートは先にも後にも、ハプスブルク家の堅苦しい伝統としきたりに馴染むことは出来ませんでした。
外から嫁いできて苦労してきたのは姑ゾフィーも同じでした。彼女は必死にはプルブルク家のマナーをエリザベートへ強要しますが、エリザベートは馴染むどころか追い詰められていってしまい、ついには体調を崩し、医者の勧めで転地療養をおこないます。再びウィーンへ戻るとすぐに具合が悪くなり、次第に彼女はウィーンにとどまることが少なくなっていきます。
後年になってエリザベートは過去を振り返り、大公妃ゾフィーがよかれとおもって自分にしたことは、自分にとっては困難なことばかりだったと語っています。
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孤独への追い討ち
エリザベートは結婚翌年に初めての子供を出産、女の子でしたので大公妃ゾフィーにあやかり『ゾフィー』と名付けられました。彼女は続いて次女ギーゼラを生みますが、長女ゾフィーを不注意により2歳で夭逝させてしまいます。
悲しみにくれる皇帝夫妻は翌年、待望の男の子ルドルフを授かりますが、子供はすべてエリザベートの手元から離され、姑ゾフィーの近くで乳母に育てられることとなりました。
当時のヨーロッパ王室では珍しいことではありませんでしたが、エリザベートは意に反して子供たちと触れ合う機会が少なくなり、結局ルドルフ皇太子の悩みを苦しみを最後まで知ることはできませんでした。現実から逃げるよう、エリザベートは美に執着し旅へと出かけることが更に多くなったのでした。
息子ルドルフの自殺
そんな彼女をどん底へと突き落としたのは、愛する息子ルドルフ皇太子とマリー・ヴェッツェラの心中事件でした。事件がおこったのは1889年1月30日の未明、マイヤーリンクの狩りの館でのことでした。ルドルフは最初にマリーをピストルで撃ち、その後自分の頭を撃ち抜いて自殺を遂げました。
ふたりの遺書が見つかっていることから、これが”合意の上での心中”であったことは間違いないものでした。唯一の世継ぎであったルドルフ皇太子は30歳、ベルギー王室から嫁いだジュテファニー皇妃とのもとにうまれた王女を残して亡くなりました。
叶わぬ恋のいくすえにたどりついた情死事件だと世間は騒ぎました。というのも、マリーの母親はトルコ人で、オーストリア人の夫の死後、夫が残した財産をつぎこんで娘の良縁のために男爵の地位を得ました。宮廷に近づき見事にルドルフの興味を得ますが、周りの証言からするとルドルフの方は軽い気持ちでマリーを相手にしていたようでした。
自殺の真相
それよりも、ルドルフは政治的なことで皇帝と意見があわず、国の未来を憂いていました。
現在では、病気もあいまって自分の将来にも絶望していた皇太子が自殺を決意した、という説のほうが有力となっています。女性を道連れにしたのは情死を装うためだったのではないかともいわれていますが、実際のところはわかっていません。他の女性にも声をかけ断られていたことから、マリーだけに夢中だったわけではないようです。
事件の後、皇帝はマイヤーリンクの狩りの館を取り壊し、その跡地にはカルメル会の女子修道院が建てられました。この場所はいまでのヤークトシュロス (狩りの館)と呼ばれています。
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エリザベートの晩年
一人息子で唯一の皇位継承者だったルドルフを亡くした皇帝は、弟の息子である甥のフランツ・フェルディナント大公を後継へと指名しました。しかしながら、彼はのちにサライェボで暗殺されてしまい、最終的に王位は彼の弟であるカール大公(後のカール1世)へと渡されたのでした。
ルドルフの自殺はハプスブルク帝国の崩壊を予感させるものでした。エリザベートは息子の死以来、生涯喪服を着て生活することとなります。心の痛手は癒されることもなく、悲しみを抱えてますます旅を続けるようになったのでした。
エリザベートの最後
1898年9月10日、スイスを旅行中だったエリザベートはスターライとふたりでジュネーブからモントルーへと船で戻るはずでした。レマン湖畔の桟橋から船に乗り込もうとした時、男がぶつかってきてエリザベートは暗殺されてしまいます。
エリザベートの遺体は9月15日にウィーンのホーンブルクに到着しました。ウィーン市民の動揺は大きかったわけですが、気ままな皇妃に対する思いより大きかったのは、皇帝への同情心でありました。ほとんどウィーンにはおらず公務にも従事していなかったエリザベートに対し、それまで市民は好意を抱くことができなかったのです。しかしこの暗殺事件以来、彼女の美貌がさらにクローズアップされるようになり、周囲から理解されなかった数々の行為は逆に「悲劇の王妃」のスパイスと変わりました。“風変わりな王妃”と囁かれていたエリザベートの全てが美化され、そしてシシィ伝説が作られていったのでした。
あとがきにかえて
バイエルンでのびのびと育った少女時代、思いがけぬ婚約とウィーンへの輿入れ。慣れない宮廷生活、ウィーンを離れるめに旅を続ける姿とひとり息子の死。一眼を避けて暮らす様子、外出時に顔を隠すための日傘と扇子。旅先での突然の死。そして1898年9月10日、エリザベートはレマン湖畔のほとりでの突然の暗殺。
皇帝の悲しむ姿は痛ましいほどで、彼は「私がどれほどシシィを愛していたか誰にもわからない」と呟いたそうです。ヨーロッパ中に悲報が伝わりました。ウィーンを嫌って宮廷には寄り付かず、公務を怠り政治的窮地にたたされている夫を支えようともせず、いつも気ままな旅を続けていた皇妃エリザベート。
帝国の行方を左右する大切な時期に、夢現な花嫁にやきもきするゾフィーの心持ちはわからないでもないでしょう。しかしそれまでウィーンでは良い評判がなかったエリザベートも、この時からその生涯を美化されて『伝説の女性』へと変わっていきます。その美しさで皇帝の心を掴み、心と環境の不一致に悩まされ苦しみ続けたエリザベート。
彼女もマリー・アントワネットと同様、悲しいことに、最期が「悲劇」だったからこそ、その生涯は美しく永遠と語られるものになったのかもしれません。
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