中世ロマノフ王朝にあらわれた長身のイケメン変革者のピョートル大帝の娘「エリザヴェータ」。王位継承権一位だった彼女ですが、なかなか良い風が吹かず次々別の人間が玉座につくのをただ見ているしかできない苦い日々がありました。この記事では、皇女エリザヴェータが玉座につくまでの道のりをみていきます。
ロシアの皇女は、どこの国へ嫁ぐのか
(1720年代のエリザベス 画:イヴァン・ニキティク・ニキティン)
愛らしさと優雅な立ち振る舞い、流暢なフランス語をあやつるエリザヴェータを、両親はいずれヨーロッパの妃にしたいと考えていました。しかし憧れのフランス宮廷ルイ15世の妃候補に推薦されるも見事に玉砕。フランス大使も力を尽くしたのでしょうが、代わりに提案したシャロレ伯爵からもあっさりと断りの連絡をもらいます。
エリザヴェータは「フランスからみれば、ロシアはいまだに田舎の成り上がり国にすぎず、ヨーロッパ先進国の仲間と認められていない」ことを認識せざるをえませんでした。
母帝エカテリーナの死と、後継者争いの再燃
(ナティエによるエカテリーナ1世の肖像画)
フランス王妃の座など、とても届くものではなない。彼女は唇を噛み、2年後に姉アンナの夫ホルシュタイン=ゴットルプ公の従兄弟(ドイツ小公国の主)を婚約しますが、彼はその年のうちに天然痘で亡くなってしまいます。
それは悲しくも、母でありロシア女帝エカテリーナ1世の逝去直後のことでした。母はピョートル大帝と同様に、後継者指名をせずに亡くなりました。エリザヴェータは「母帝」という大きな後ろ盾を失っただけでなく、ロシアに「後継者争い」の火種が再燃したのでした。
諸侯たちの権力争いがはじまり、勝ったのは..
(ロシア史をもとに著者作成)
かくしてロシアに混沌がおとずれ、熾烈な玉座争いが巻き起こります。まず白羽の矢がたったのは、エカテリーナの娘 (エリザヴェータの姉) のアンナです。彼女の夫ホルシュタイン・ゴットルプ公は「妻を女帝に」とロシアに居座りましたが、大貴族ら保守派に破れてドイツへ帰国します。
ここから玉座につく人物がコロコロ変わるのですが、最初に王冠をかぶったのは、ピョートル大帝の孫でありまだ幼く12歳のピョートル2世でした。
ピョートル大帝の重臣であったメンシコフは、「いまだ」とばかりに、彼の娘マリヤを少年ツァーリと婚約させます。しかし少しばかり病気で寝込んでいるに、政敵ドルゴルーコフの策謀により、全財産を没収され、シベリア送りになり、極寒の地で障害を終えることとなるのでした。
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一寸先は闇、争いに敗れたものを待つ残酷な運命
(シベリアに追放されたメキシコフと娘たち 画:ヴァシーリー )
ソ連時代には「夜明けにドアを乱暴に叩く音で死ぬほど怯え、逮捕者が自分ではなく隣人と知るや”人生最高の幸せを感じた”」などというブラックジョークがあったそうです。いまどんな地位にあっても、明日はわからない。いつ引き摺り下ろされるか、形勢逆転が起きるか誰もわからない。
さらに権力争いに敗れたものは「罷免や財産没収、国外追放」なんていう生易しいものではなく、それらに加えて過酷な拷問、シベリア送り、四肢切断などの公開処刑、妻子や一族も巻き込まれるというんですから、たまったものじゃありません。寝首をかかれる前にやらねば、とどこもかしこも疑心暗鬼だったのです。(ロマノフ王朝の終わりもニコライ皇帝一家全員が惨殺されるという、悲惨な最後でした)
少年ツァーリの後は、野卑な女帝アンナ
結局ピョートル2世は3年足らずで、独身のまま逝去。次に白羽の矢がたったのは「アンナ」です。
ロマノフ王朝2代目のアレクセイの時代に、先妻の娘(皇女ソフィア)と、後妻の息子(ピョートル大帝)が命をかけ主導を争いました。結果としてエリザヴェータの父、ピョートル大帝が玉座についたわけですが、皇女ソフィアの弟イヴァンには、(誰もが忘れていた)アンナというひとり娘がいたのです。
彼女はクールラント公国の辺境伯と結婚していたのですが、子もなく37歳にして未亡人となっていました。そこで諸侯たちは「アンナ」を支援して自分たちが主導権をとるべく彼女をロシアへ呼び戻します。
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アンナの凄まじい貢献と、爛れた生活
(ロシア皇帝 アンナの肖像画 画:ルイ・カラヴァク)
女帝アンナを語るには、2つの側面「女帝としての功績」と「晩年の野卑の生活」にふれる必要があります。まず彼女は帝位についてしばらくすると、
- 目障りな貴族たちをシベリア/修道院へ送り、
- ロシア人は信用ならぬと、多くのドイツ人を重要し、
- 首都を再びモスクワからペテルブルクへ戻した
のでした。
合理的な将校育成期間が設立され、鉄鋼生産は倍になり、ドガ湖には運河を建設。イギリスとも通称条約を締結するなど、あきらかにロシアの地位を向上させます。
氷の女王、アンナの野卑な宮廷
(画:ヴァレリー・ヤコビ 1878年)
しかし治世後半になると、アンナは国政から遠ざかり、「疲れた」とばかりに爛れた生活を送ったのでした。このヴァレリー・ヤコビの絵画では、アンナの存在がいかに怖いかが示されています。怯える新婚夫婦のミハイルゴリツィンとアヴドトヤブジェニノバが左の氷床の上に座り、その前に黄金色のドレスを着て堂々たる存在感を放つのがアンナ皇后です。
またこちらは「アンナの野卑な宮廷」という歴史画。座るのも億劫でベッドへ横になったまま酒を浴び、道化師や小人症の芸人や旅次第の俳優たちに、とても上品とはいえない寸劇をさせ喜んでいるアンナの姿が描かれています。
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アンナが誰より嫌ったエリザヴェータの逆転劇
(ピョートル2世とエリザヴェータ 画:セロフ)
エリザヴェータは30歳をむかえ、もとよりの器量の良さと、美と愛嬌にも磨きがかかり、民衆と軍隊の間でもとりわけ人気がありました。不摂生で美とはかけ離れたアンナには彼女が鼻についたことでしょう。「自分の命は長くないけど、王位は渡したくない」と頑なになっているときに、なんとアンナの妹の娘 (姪) に男児イワン6世が生まれます。
(ロシア史を元に著者作成)
しかしアンナの思惑通りにはいかず、イワンが戴冠した翌年の1741年、エリザヴェータを崇拝する近衛軍が、赤子のツァーリ (イワン) と、母親が眠る寝室に押しかけ2人を逮捕してしまいます。
かくしてクーデターは成功し、エリザヴェータは32歳にしてようやく玉座についたのでした。ルイ15世にフラれ苦い思いをした彼女ですが、結果としてフランス王妃となるより、ロシア女帝のほうが自由に振舞えましたしよかったのかもしれません。
エリザヴェータの治世はどうだったのか
(チャールズ・ファン・ルーが描いたエリザヴェータの正面肖像画)
アンナによってツァーリにされたイワン6世を祭り上げた重心らには「拷問および四肢切断系刑」が言い渡されましたが、エリザヴェータの恩恵により、その極刑はシベリア送りに減刑されます。
彼女は自費深い国母のイメージを国民に浸透させる意図もあってか、万事がその調子で、エリザヴェータの優しさが美質として喧伝されたのでした。ロココ調の肖像画、ヨーロッパかぶれの宮廷。次代のエカリーナ大帝は彼女のことを「着飾ることしか興味がなかった」と毒づいたため過小評価されがちですが、実際には
- 地方政治の崩壊を立て直したり、
- 外交では親仏路線をとり、新興勢力プロセインを追い詰め、
- ロシア大学の解説、本格的人口調査
- 銀行解説、拷問禁止
など、変革者ピョートル大帝の娘らしい政治力を発揮していたといいます。
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あとがきにかえて
(エリザヴェータ 画:E.ランセレ(1905年))
ちなみに赤子のうちに幽閉されたイワンは、23歳のときに奪還しようとした一群が幽閉場所の要塞へ攻め入ったため、看守に刺殺されてしまいました。しかし長すぎる幽閉により、狂気に陥っていたといわれています。
(イヴァン6世の遺体の前にいるミロヴィッチ)
スペインハプスブルク家没落の原因は「高貴な青い血」に執着したため近親交配による身体の弱体化にありました。しかしロシアの恐ろしさは、別のところにあるといいますか。肉親でも重臣でも容赦なく敵対し「殺られるまでに、殺る」という疑心暗鬼が招く悲劇の連鎖にあるのかもしれません。皇女ときくとさぞ華やかで贅沢な暮らしが待っているのかと思いきや、権力争いのど真ん中にたってしまうのですから、恐ろしいものです。もし生まれ変わりというものが存在するのであれば、今世では平凡な暮らしが送れているといいなとおもうのでした。
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