イングランド王ヘンリー8世と、2番目の王妃アン・ブーリンの間に生まれたエリザベス1世。イギリス史上最も有名な君主にして、イングランドに黄金時代を築き『発展の礎』を作り上げた人物です。この記事では、イギリスにほぼ半世紀の安定をもたらした、といわれる女王エリザベス1世をご紹介します。
- 実母は父王によって処刑され、一時は庶子の身分に落とされた
- ブラッディメアリーと呼ばれた義理姉とは、最後まで確執があった
- 従兄弟から横槍を入れられるも、安定した統治でイングランドに安寧をもたらした
ヴァージンクイーンの生涯
エリザベス1世は、1533年9月7日にヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの間に生まれました。しかし誕生してわずか3年後、母アンは姦通罪で処刑されてしまいます。父であるヘンリー8世はすぐに再婚したため、エリザベスは庶子の身分に落とされることになります。
しかし1543年にヘンリー8世が迎えた王妃キャサリン・パーは彼女を宮廷に呼び戻し、彼女の後ろ盾をえて、『エリザベスの王位継承権』が復活することになったのでした。
継母キャサリンのもとで
「大好きなお母さま」と書いた手紙が残っているほど、エリザベスはキャサリンに懐いていたといいます。キャサリン王妃の庇護のもと、エリザベスは帝王教育がはじまった異母弟エドワードと共に多くのことを学んでいきました。
エドワードと同じくエリザベスもプロテスタントだったのは、育ての母となった王妃キャサリンの影響が大きい、といわれています。その後1547年に父ヘンリー8世は死去。王位はエドワードが一旦つぎますが病弱なために早逝、異母姉のメアリーにわたりました。
異母姉メアリーとの確執
ブラッディメアリーと呼ばれた姉の治世は、宗教問題やスペイン王太子 (フェリペ2世) との結婚問題で国内が騒然となった時期でもあり、エリザベスはワイアットへの乱への関与を疑われて幽閉されたこともありました。しかし、エリザベスは生母やその他王妃の悲惨な末路をみてきたことから冷静に対処。メアリー1世が亡くなる1558年まで目立たないよう静かに過ごし、姉が亡くなったあと女王として即位しました。
エリザベスの治世は「イングランドを落ち着かせ、発展の礎をつくった」といわれています。母アンに姉メアリーの混乱を目にして育ったためか、エリザベスは生涯伴侶をもつことはなく終生独身を貫きました。
エリザベスの治世
敬虔なカトリックであった姉は、プロテスタントを徹底的に弾圧。多くの人が処刑され、たくさんの血が流れました。エリザベス1世は即位すると、早々にメアリーによって乱れた宗教改革の是正に励みました。イングランド国教会を再建し、カトリックを再び抑圧するようになったのです。これに怒ったのが姉メアリーの元夫スペイン王フェリペ2世。
彼は「もはや和議はない」として、のちにイングランドに攻め込んできますが、偶然も重なりイングランドの圧勝、スペインの干渉を受けるには至りませんでした。ただ世継ぎがいなかったために、テューダー朝は彼女の代で終焉することになりました。
メアリー・ステュアートの脅威
またエリザベスの脅威は、フェリペ2世だけではありませんでした。親戚にあたるスコットランド女王のメアリー・ステュアートです。フランスに嫁いだ彼女は、エリザベスを「所詮庶子」とバカにして、義理父のフランス皇帝アンリ2世とともに、イングランド女王の座を狙っていました。
(参考記事:【処刑台でも女王】魔性の女、メアリーステュアートの生涯)
ただアンリ2世は亡くなり夫が早逝すると、メアリー・ステュアートは犬猿の仲であった姑カトリーヌ・ド・メディシスにフランス宮廷を追い出され、スコットランドに戻されてしまったのです。色々スキャンダルもありイングランドに逃げ込んだメアリーはそのまま幽閉。それでもしぶとくエリザベス暗殺計画を目論んでいた彼女に対して、命の危機を感じたエリザベスは議会の声をうけ「これ以上雨は..」と彼女の処刑を決めたのでした。
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まとめ
1603年、エリザベスは69歳の生涯を閉じました。彼女の棺は夜間に松明を灯した艀に乗せられて、川を下りホワイトホール宮殿へ運ばれました。葬儀では棺は4頭の馬に曳かれた霊柩車に乗せられて、ウェストミンスター寺院へ移されたといいます。父ヘンリー8世は女癖は悪かったものの、それがなければ色んな才に秀でた人物でした。
その血を確かに受け継いで、相次ぐ理不尽を受け流しイングランドを統治した女王様。様々な悲劇を目の当たりにして、荒れた時代を賢く生きた女性と言えるのかもしれません。(エリザベス1世の母親については、こちらの記事【処刑された王妃 アンブーリン】とヘンリー8世の秘された物語 にまとめております)
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