歴史をみていくと、名君主の側にはいつだって彼女らをサポートする優れた人々が存在します。この記事では大英帝国の繁栄を築き上げたヴィクトリア女王を支えた首相たちをご紹介します。
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初代首相 メルボーン子爵
若き女王に、政治の舵取りを教示
60年間王位に就いていたヴィクトリアは、多くの首相が入れ替わるのをみてきました。何人かの首相が彼女と親密な関係を築いた一方、女王の好意を得らえず終わった人たちも存在しました。初代首相であるメルボーンは温厚な性格でありハンサムで、若い女王に政治の理を教えてくれた人物です。メルバーン子爵は一日のほとんどを宮廷ですごし、様々な問題でヴィクトリアの相談に乗り、半ばヴィクトリアの個人秘書のようであったといいます。
ヴィクトリア女王が、まるで父のように慕った温厚な男性
メルボーンの洗練されたマナーと話術はヴィクトリアを魅了して止まず、2人は多いときには1日6時間も話し込み、君臣の関係を越え父娘のような関係になっていきました。
それはこの頃の女王の日記からも、見てとることができます。ヴィクトリアがはじめて貴族院(※)に出席し、議会開会宣言を行った日の日記には「彼が玉座の側に控えていてくれるだけで安心できる」と書かれていました。(※)イギリスの議会を構成する議院のひとつで、上院に相当
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最もヴィクトリア女王に寵愛された首相、ディスレーリ
ディスレーリの功績
ベンジャミン・ディスレーリもまた、ヴィクトリアの心を捉えた人物のひとりです。メルボーン卿の功績がヴィクトリアに政治を教え彼女の初期を支えたとすれば、ディスレーリの功績はヴィクトリア女王をインド女帝に戴冠させたことです。この時代ヨーロッパ大陸諸国は、次々と保護貿易(※)へ移行していました。(※) 関税などの交易障壁を設けた状態における貿易のこと、対義語は自由貿易
イギリス綿業にとってインド市場の価値は高まっていき、ディズレーリ政権もインドとの連携の強化を重視しました。1876年にはヴィクトリア女王が『インド女帝位』を望み、インドとの連携強化の一環になると考えたディスレーリが議会との間にはいり均衡をはかったのです。
『インド帝国女帝』の座を女王に献上
ナポレオンの前例もあり、イギリスでは『皇帝』という称号が好まれていなかったのですが、『この称号はインドに対してのみ用いる』という条件付きで野党の反発を押し切り、4月には王室称号法によって『インド女帝』の称号をヴィクトリアに献上したのです。
最初は女王の目に止まらないどころか悪印象だったディズレーリですが、大蔵大臣として入閣したディズレーリの報告書が小説的だったことがヴィクトリア女王の注目を惹きました。二人は、小さな島国を司令塔に南アフリカから極東までまたがる世界最大の大帝国に素朴な誇りを持っている点も共通していました。ヴィクトリア女王は、やはり小説的に仕立てるディズレーリから帝国の状況について報告される時、自分が全能の神であることを認識できたという話しも残っています。
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あとがきにかえて
ディズレーリは首相を2期務め、またそれ以前には外務大臣を3期にわたって務めていました。しかし、他の首相たちはヴィクトリア女王からそれほど良い反応を受けることはなく.... ヴィクトリア女王は首相をつめたジョン・ラッセル卿を「頑固で無礼である」と、パーマーストン卿を「恐ろしい老人」と呼びました。
パルマーストンは、(ヴィクトリア女王の夫) アルバートが提案した外交官派遣の修正案を無視し、また女王の侍女を誘惑したことでも怒りを買っていました。女王は首相グラッドストンのことも同様に腹立たしいと感じており、得意の毒舌で彼を「半分正気でなく、多くの点でばかげた、野生で理解できない古い狂信者」といい彼を解任しました。政治の世界では、どんなに優秀な人物であっても、トップとうまく付き合っていけない人には悲惨な末路が待っているのでしょうか。嘘も方便、本音と建前、どこの国でも組織のなかでいくにはそれなりの配慮が必要なのかもしれません。
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