- エリザベス暗殺を企て処刑が決まったメアリー・ステュアート
- 2回斧を振り下ろすも生きており、3度目でようやく留めとなった
- そもそも斧は打ち損じることがあり、一撃で仕留められなければ悶え苦しむ処刑方法でもあった
お騒がせ女王として名を馳せ、最後まで粘り強さを見せたメアリー・ステュアート。
首切り人の斧は思う通りにいかず、「斧」を何度も振り下ろすハメになったといわれています。この記事では、斬首人さえも困らせた彼女の処刑までをおっていきたいとおもいます。
悲劇の女王
16世紀のイギリス女王メアリー・ステュアート、彼女はスコットランド王国とイングランド王国の王位をめぐって争い、結局処刑されることになった悲運の女王です。生半可なものとなったあの処刑は、彼女の悲劇的な結末の象徴となっています。
メアリー・ステュアートは、生涯を通じて政治的な波乱に巻き込まれていました。
生後わずか数日でスコットランド王位を継承した後、ヘンリー8世から逃れるためフランス王国に亡命するも伴侶となったフランス国王は早逝。そのため1561年にはスコットランドに帰国することとなりました。
処刑の決定
スコットランドの貴族と対立し、イングランドの王位に目をつけたメアリーはイングランド女王エリザベス1世とも対立することになります。
争いの結果、1571年に彼女は廃位され、以降は各地を転々として過ごすこととなりました。そして1586年、メアリー・ステュアートは、エリザベス1世の暗殺を企てたとして逮捕され、処刑が決定されました。
(投獄中のメアリーのイメージ図)
告げられた処刑のお知らせ
メアリーの処刑は「フォザリンヘイ城」で行われることになりました。
1587年2月7日の午後、エリザベス女王の側近が、当時メアリー・ステュアートが監禁されていたお城に到着しました。そして看守の目の前で囚人の処刑に関する書を読み上げ、翌朝7時から8時に処刑を実行すること、そして看守にはすべての準備を整えるようにと命じたのです。
実際、メアリー・ステュアート本人はあまり驚きは見せなかったといいます。というのも、彼女はもはや終止符を打つことを望んでおり、幽閉されて以来「死を覚悟をしていた」からです。それでもメアリーは、使者たちにこう頼んだそうです。
自分の身支度をし、自分の意志を固めたいのです。
自分のことを、きちんとするための時間を少しください。
しかし、シュルーズベリー伯は容赦無く、こう返しました。
いいえ、マダム。
あなたは死ななければなりません。
死ななければならないのです。
処刑が行われるのは午前7時から8時までです。
その時間より少しも遅れてはなりません。
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来たる処刑の日
メアリーは処刑までの時間を、友人や親戚にお別れの手紙を書いたり、侍女たちに別れを告げたり、祈ったりして過ごしました。
来たる処刑の時間、足場は大きな部屋の真ん中に用意されていました。それは両側に沿って12フィート (約356センチ)、高さが2フィート(約60cm)あり、粗い麻の布で覆われていたといいます。
メアリーは絞首刑台の上に立ち、神へ許しを乞いました。
こちらの絵画に描かれているのは、白い首と喉があらわになったメアリー・ステュアート。彼女は公共の場で、特に大規模な集会の前では服を脱ぐことは嫌だと拒んだそうですが、聞き入れられることはありませんでした。
目撃者全員の前で下着姿にさせられたメアリーは、泣いている使用人たちに別れを告げ、死刑執行人たちに近づきました。侍女の一人は、メアリーの目を覆うためにカチーフを結び、それから彼女は座布団の上にひざまずいてラテン語で祈り始めました。
目隠しをされたメアリーは、ブロックを手探りで探さなければならず、介助をえて顎を置きました。
打ち損じて
そもそも斧は打ち損じることがあり、一撃で仕留められなければ悶え苦しむことになります。
死刑囚を苦しませるため、場合によっては、首切り人が「わざと打ち損じる」こともあったといいます。メアリーの場合は故意ではなかったものの、処刑が一撃で終わることはありませんでした。
時間になると、一人の死刑執行人が彼女をおさえ、もう一人は斧を持ち上げて彼女の首に振り下ろしました。しかし、処刑人は目標を外しており、刃はきれいには貫通しなかったのです。
最後の一振り
これは、処刑人の技量不足によるものとされています。彼は、斧の刃を十分に研ぎ上げず、さらには正しい角度で振り下ろすことができなかったため、首を完全に切断することができなかったのです。
処刑人は斧を振り上げてもう一度振り下ろしました。しかし、2度の打撃を受けても、まだ首を完全には切断することはできませんでした。
死刑執行人は、首と頭をつなげている 「小さな一本の筋」 を切るために再び振りおろしました。そして、3度目にいれた斧でようやく命を奪うことが叶ったのです。
メアリー・ステュアートの首が落とされると、首切り人は民衆へこう叫んだといいます。
女王陛下万歳!
真の敵は、このようにして滅びるのだ
死後の評価
彼女の死は、当時のイングランドとスコットランドの関係を悪化させ、宗教的な対立を深めることとなりました。
その後、メアリー・ステュアートの名声は再評価されるようになりました。彼女は、自分自身の信念に従って行動し、時代の思想に反してカトリック教徒としての信仰を貫いたことで知られています。
彼女の処刑失敗は、そのような信念を貫く者たちに対する社会の厳しさを象徴するものとなりました。また、メアリー・ステュアートの人生には、様々なドラマが詰まっています。なぜ彼女の人生にこれほど人々は魅了されるのか。
彼女の膵も甘いも知り尽くしたジェットコースターのような人生は人々の心を惹きつけて止まないのです。
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まとめ
生まれながらに女王であったメアリー・ステュワート。
「処刑後、彼女の髪の毛は真っ白だった」といわれています。それは歳のせいではなかったそうで、19年間幽閉されたストレスか、はたまたいつ殺されるかといった恐怖だったのでしょうか。彼女のしぶとい人生を模倣してか、一撃で命が絶たれることはなく、二度三度と苦しんだ末に首がようやく落とされたのでした。
メアリーの処刑執行を命じたのはイングランド女王「エリザベス1世」。しかし彼女には子供がいませんでしたので、その後「イングランド玉座」はメアリーの息子「ジェームズ1世」が継ぐことになるのですから皮肉なものです。メアリー・ステュワートは処刑されましたが、たしかにその爪痕をイングランドに残していたのでした。
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