【マリーアントワネットとフェルセン伯爵の秘密の恋】ふたりの間に愛はあったのか

ブルボン王朝

歴史家や伝記作家は、マリー・アントワネットとフェルセンの関係について長年議論してきました。2人の愛の強さは手紙にもみてとることができ、確かにお互いの人生に確かに影響を与え合っていたといわれています。

この記事では多くの人の人生を狂わせたフランス革命中において、王妃アントワネットを命がけで守ろうとしたひとりの男性の物語をご紹介します。

ふたりの出会い

マリー・アントワネットとフェルゼン

スウェーデンの名門貴族にうまれたフェルセンと、フランス皇太子妃となったマリー・アントワネットふたりが出会ったのは1771年1月、パリの仮装舞踏会でした。まだともに10代のころです。フェルゼンは容姿端麗で背が高く、フランス軍でキャリアを積みました。出会った時はまだ若き将校でしたが、聡明な人物でありました。

ヨーロッパを3年間遊学し、貴族に必要とされる知識を習得して18歳でパリの社交界にデビュー、たちまちパリの上流階級の婦人に人気を博しましたフェルセンは数ある結婚話を頑なに断り、マリー・アントワネットただ1人に愛を注いだといわれています。

皇太子妃となったアントワネット

同じ年に生まれたマリー・アントワネットは、オーストリア女帝マリア・テレジアの15番目の子供であり、お気に入りの娘。敵対していたフランスとオーストリアでしたが、14歳のときマリー・アントワネットは、平和の証としてフランスのルイ16世の元へ嫁ぎました

フランスに移り住むと彼女は洗練されたファッションにすぐに魅了され、宝石やドレスなど贅沢品の虜となっていきました。フェルセンは彼女の旧友として招かれ、彼は可能な限り頻繁にヴェルサイユへいきましたが、外交官に昇進し数年間イギリスへいくこととなります。

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遠くに離れて

マリー・アントワネット

フェルセンはアメリカ独立戦争でアメリカ人に代わってフランス人と戦いました。そこで1781年に彼はヨークタウン包囲戦で名声を博し、ロシャンボー将軍の補佐官となった。またその功績や勇気などから、彼はさらに大佐へ昇進したのでした。

マリーアントワネットはというと、1774年皇太子がフランスのルイ16世として即位したため、フランス王妃となっていました。彼らの結婚は幸せではなかったとする歴史的記録も多いのですが… 、ルイ16世の肉体的欠陥により7年間子供ができなかった彼女としてはもどかしい日々を過ごしたのは確かでした。

アントワネットの転機

王は狩りと静けさと孤独を楽しみ、王妃は芸術やファッション、ダンスに社交界を楽しみとしたのですれ違いもありました。『赤字夫人といわれたマリー・アントワネットですが、社交界に宝石にドレス狂いとなったのはこういったストレスが原因だといわれています。嫁いできた以上宮廷に求められるのは世継ぎですが、全くできる兆しもない。

最終的にはマリー・アントワネットの実家ハプスブルク家の兄が出てきてルイ16世を説得、王が手術を受けて夫婦は4人の可愛い子供たちを授かるのでした。母となった頃には、そういった派手な遊びはだいぶ落ち着いていたそうです。

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距離は遠くても、心は離れず

マリー・アントワネットとフェルセン (マリー・アントワネットとフェルセン)

2人は何年も離れていましたが、フェルセンとマリー・アントワネットは私的に手紙のやりとりを続けていました。そして彼がアメリカからフランスに戻ったときには、小さな暦を渡しました。その上に彼女は「信仰、愛、希望は、決してアメリカには行かないでしょう」とフランス語で刺繍をしました。フェルセンもまた、マリー・アントワネットのために特別な指輪を作りましたそれには「すべては、私をあなたに導きます」と刻まれていたといいます。

1784年、スウェーデン政府はフェルセンをスウェーデンに呼び戻しました。多くの歴史家は、フォン・フェルセンが自国のグスタフ3世に仕えていた間も、彼の忠誠はマリー・アントワネットとフランス君主にあったという見解を示しています。1790年、グスタフ3世はスウェーデンの外交部隊の一員としてフェルセンをヴェルサイユに派遣しました。

より親密な関係になって

フェルセンは1791年中パリに留まり、彼と王妃マリー・アントワネットはさらに親密になりました。恋人になったと主張する歴史家もいますが、本当はどうだったのか。ただこの時にはフランス革命が勃発してマリー・アントワネットはテュルイリー宮殿の囚人となっていたのですが、フェルセンは宮殿に自由に入ることができました。

1790年4月に彼は妹のソフィーに、次のような手紙を送っています。私は少し幸せです。時々ですが、彼女の住居で自由に彼女に会うことができるのです」と書いています。

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ヴァレンヌ事件

既にルイ16世の弟たちは国外へ亡命していたものの、フランスへ留まることを選んだルイ16世。1791年、さすがにこれ以上は危険だとして一家の亡命を企てます世にいうヴァレンヌ事件ですね。フェルセンらは、王室がチュイルリーでの収監から脱出するための計画を立てました

1791年の6月20日、国王一家とフルセンはロシアの男爵夫人の召使に扮して自身が運転する馬車に身を寄せ、フランス北東部のモンメディの町へ向かいました。モンメディは王党派の砦であり、王はそこから反革命を起こすことを望んだのです。

しかし国王ルイ16世はその綿密な計画を尽く無視とくに時間の面で大きなロスをうみました結果国王一家はモンメディからそう遠くないバレンヌという革命的な町で逮捕され、罵声を浴びせられながらパリに連れ戻されてしまいます

国王一家の逮捕

ヴァレンヌ事件

脱出の試みは失敗し、民衆による王室への信頼は大暴落…..「王と王妃は国を捨てようとしている」とふれまわる革命派に煽られ、民衆の憎しみはどんどん増していきました。ルイ16世によって遠ざけられたフェルセンは、なんとかブリュッセルに逃れます

そしてそこで、マリー・アントワネットの兄弟であるヨーゼフ2世の保護を受け、王妃と家族の救出に向け動きつづけました。一方脱出を手引きしたフェルセンの主君、スウェーデン王グスタフ3世は、ドイツのアーヘンにてフェルセンからの報告を待ちわびていましたが、結局、脱出成功の報を聞くことはありませんでした

逆に国王一家逮捕の知らせが届いたため、グスタフ3世は直ちにすでに亡命していたフランス貴族とはかり、「反革命十字軍」を組織する計画を立てました。10月1日にはロシア帝国とも軍事同盟を締結しましたが、最終的にはグスタフ3世の暗殺などで実現することはありませんでしたグスタフ3世の行動はかなり極端ではありましたが、後の対仏大同盟の先鞭となったともいわれています。

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フェルセンが試みた救出

マリー・アントワネットはヴァレンヌ事件のあと、フェルセンにこう手紙を書いています。「私はあなたを愛していると、それしか今はいえません」と。一方、フェルセンは妹に宛てた別の手紙の中で愛する女性が連れ去られたからといって私が結婚することはないでしょうと書いていました

1792年2月、フェルセンは王家を救出するために命がけでフランスに戻りますが、その計画を実行することはできませんでした

彼はまた、ブランズウィック・マニフェスト の起草を委任し、革命軍の侵略を警告しました。それは『パリ市民が国王ルイ16世に少しでも危害を加えればパリ市の全面破壊も辞さないという内容の脅迫でありましたが、より一層市民を怒らせ、敵に守護される国王の廃位要求に彼らをかき立てる結果になったのでした。

おわりのとき

フェルセン

1792年2月21日の午後、フェルセンは最後のテュイルリー訪問をしました。マリーアントワネットとの面会で真夜中まで滞在したといいます。多くの困難をこえて、彼は1792年2月27日にブリュッセルに到着しました。しかし運命の時は刻々と近づきマリー・アントワネットは1793年10月16日にギロチンにかけられました

フェルセンはフランス革命を生き延びたあと、スウェーデンの国政に携わっていきます。しかしヴァレンヌでの逮捕については悔やんでも悔やみきれず、自分を責めたといいます。フェルセンは、マリー・アントワネットを失った原因としてかねてから憎悪していた民衆に対しさらに不信の念を抱くようになり強圧的な振る舞いが多くなっていきました

それは憎悪の連鎖を呼び起こすことになり、民衆も彼を激しく憎むようになった。そして1810年、スウェーデン人の暴徒に襲われ54年の生涯を閉じました。生涯独身を貫いての最後でありました。

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まとめ

マリー・アントワネットとフェルセン

マリー・アントワネットとフェルセンは愛人関係だったのか。200年以上の間、歴史家や伝記作家たちは、アクセル・フォン・フェルセンとマリー・アントワネットが恋人同士であったかどうかについて議論してきました。彼らと同じ時代に生きた人は、彼らと伯爵のヴェルサイユとテュルイリー宮殿への頻繁な訪問との間の手紙を利用して、女王が不道徳で伯爵が節度を欠いていることを証明すると思われる噂を広めました

その後の伝記作家や歴史家は、さまざまな文献や視点を用いて独自の結論を導き出した。これらはほんの一部です。Marie-Antoinette l’insumise』のサイモン氏によると、2人の愛は 「愛があったとしても、貞節な愛」 だったという。

ちなみにフェルデンの父親フレデリックは、フランスを第2の故郷として愛し、家庭ではフランス語が使われていたそうです。その先で出会うことになったマリー・アントワネット革命派のデマが多く残っていますが、聡明なフェルセンが生涯愛した女性であったことは確かなようです。

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