『ミュージカル エリザベート』で一躍有名となったハプスブルク皇妃シシィと、継母ゾフィ。そのゾフィの夫こそ、嫁いできた妻ゾフィの影にかくれ、名をあげることがなく生涯を閉じた大公フランツ・カールです。この記事では強気美女ふたりの影となった、ひとりの男性の物語をご紹介したいとおもいます。
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フランツ・カール
(フランツ・カールの肖像画)
1802年のウィーン、フランツ・カールは、皇帝フランツ2世と後妻マリアの3男として生まれました。近親婚で有名はハプスブルク家ですが、カールの両親であるフランツ2世とマリアも、かなりの近親交配だったといわれています。
近すぎる遺伝子は、子孫の精神および身体的健康に負の影響を及ぼします。この夫婦の場合は、カールではなく、影響は第一子のフェルディナンドのほうに顕著に現れました。
兄フェルディナント1世
(カールの兄 フェルディナント1世の肖像画)
濃すぎる血…… 影響は、第一子フェルディナンド1世に顕著にあらわれました。フェルディナントを最も悩ませたのは、てんかんの発作であり彼はしばしば意識を失いました。脳への負担が大きいとされてチェスも許可されずウィーンの人々からは、Trottel(馬鹿)というあだ名をつけられるほどでした。
健康問題から、フェルディナントは結婚や世継ぎを残すことは不可能だと考えられました。そのため一族が『次の皇帝へ』と期待をかけたのは、後に生まれた『フランツ・カール』だったのです。
嫁となったのはゾフィ
そしてそんなカールの元へ嫁ぐことになったのが、かの有名なゾフィです。田舎から名家へ嫁ぐことになったゾフィ 。しかし精神的にもいくぶん劣っており、魅力がまったくなかったカールは、そんなゾフィをもがっかりさせたといいます。
最悪でした…。彼はわたくしを死ぬほど退屈させました… 時々わたくしは彼を打ち負かしたくなりました
最初に二人が出会ったときにゾフィが呟いたこんな言葉が残されています。
不甲斐なくいつも妻のソフィーの影に隠れていた夫カール。しかしそんな彼の名が後世に残ったのは、妻ゾフィが優れた政治家であり、フランツ・ヨーゼフの父親だったからでしょう。彼の伝記作家たちは、彼の最も顕著な特徴は深い宗教的信仰心であったと証言しています。これとは別に、兄フェルディナント1世ほどではないものの、『カール大公はあまり有能ではなく、むしろ奇妙であると同時にむしろ退屈な人物である』と考えられていました。
不甲斐ない皇太子に、元気で野心家の妻
カール大公についての文献には、「肉体と精神が弱い、甘やかされて弱気になりかけている」 など、あまりポジティブではないことが書かれていました。そのため、当時の宮廷は『彼のそばに立ってくれる元気な妻を見つけること』を何より重視したのでしょう。ゾフィに白羽の矢がたったのは、そういった理由からかもしれません。
(ゾフィー大公妃 1830年)
非常に野心的なソフィーは、最初は精神的にどちらかというと魅力のない夫に不満をおぼえていました。最初は、一連の妊娠が流産に終わったため、世継ぎの心配もされたのですが… 6年間の結婚生活の後、健康な息子フランツ・ヨーゼフが生まれ、さらに子宝に恵まれたのでした。
ゾフィが産んだ、ハプスブルク家の要となる子孫たち
(ゾフィーと長男のフランツ・ヨーゼフ、1830年頃)
世継ぎをもうけたゾフィはの存在感は、そこからどんどん増していきます。ゾフィは最終的に男児4人の母となります。転換点は彼女が42歳のとき、義理父であり現皇帝フランツ2世が退位します。本来ならばゾフィの夫カールが次の皇帝になるはずなのですが…。フランツ・カールは、知的で政治的野心のある妻の陰に姿を消し、ゾフィーは長男のフランツ・ジョセフにエネルギーを注ぎました。
ゾフィは「この革命の嵐を乗り切るためには、若く颯爽とした皇帝が必要だ」として、18歳の息子フランツを皇帝の座につけたのです。(夫カールは皇帝にならず、みごとにスキップ)息子のフランツは柔軟に母に従い、事実上の政治の決定権はゾフィにあったといわれています。
ちょっとした裏話
ちなみにゾフィとフランツ・カールの間には、まず祖父の跡をつぎ皇帝となったフランツ・ヨーゼフ皇帝(1830~1916年)、フェルディナンド・マクシミリアン皇帝(1832~1867年)のほかに、後に後継者となるフランツ・フェルディナンドの父であり、最後の皇帝カールIの祖父であるカール・ルートヴィヒ(1833~1896年)、そして結婚をせず同性愛や奇抜な生活で多くのゴシップを生んだ大公ルートヴィヒ・ヴィクトル(1842~1919年)が誕生しました。
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まとめ
フランツ・カールは兄や長男には及ばないものの長命で、1878年3月にウィーンにおいて75歳で死去しました。政治的野心とは無縁の人物で、長兄フェルディナント1世が1848年に退位した際は帝位継承権第1位であったにもかかわらず即位を辞退し、長男のフランツ・ヨーゼフに帝位を譲りました。
フランツ・カール大公は公的な役割は全く果たさなかった、といわれていますが、その後革命の嵐に飲み込まれるまで、世継ぎが安定していったのですから。息子に帝位を譲ったのも安定しているとはいえなかったハプスブルク家にとっては賢明な判断だったのかもしれません。
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