一連の外交戦略とオーストリアや他勢力との戦争で大きく領土を拡大したフリードリヒ2世。プロセインをヨーロッパにおける最高の軍事力を保持した優秀な君主。この記事では、プロセイン公国とはなにか、そして世界中の君主に恐れと憧れを抱かせた大王、フリードリヒ2世をご紹介します。
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地図でみるプロセイン
プロセイン公国とは
プロイセン公国 (公領プロセインとも呼ばれる) は、宗教改革によるドイツ騎士団の世俗化の結果、1525年に成立された公国です。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにありました。 プロイセンの語源となったプルーセン (プロセイン領に住んでいた原住民) はドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られました。ドイツ騎士団国が、1525年に世俗化しプロシア公領ないしプロイセン公国となったのです。
そしてその延長に存在したプロイセン王国は、1871年のドイツ統一の原動力であり、1918年のドイツ帝国崩壊までその主要国家でありました。プロイセンという地域からその名前をとったものの、首都がベルリンであったブランデンブルクの辺境に本拠を置いていました。
プロセインはどこにあったのか
プロイセンの領地は、現ポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)、リトアニアにかけて広がる地域に存在しました。プロイセンは1772年のポーランド分割以降、全域がプロイセン王国(後のドイツ国)の領域に入っていましたが、第一次大戦後のヴェルサイユ条約によってダンツィヒ以外の西プロイセンはドイツ国からポーランドへ割譲され、東プロイセンは自由都市ダンツィヒとポーランド回廊によってドイツの飛び地になりました。
プロセインの現在
1918年のドイツ革命により、プロイセンは新しいワイマール共和国(※)内で「自由国家」宣言をうけ、1920年に民主的な憲法を取得しました。ベルサイユ条約 (第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約)で明記されたドイツの領土のほとんどすべてが、プロイセンの領土でした
(※) 1919年7月のヴァイマル憲法制定から、1933年のヒトラー政権の成立までのドイツ共和国を特にヴァイマル共和国という
第二次世界大戦勃発(ポーランド侵攻)後、戦時中は再び全域がドイツ国の管理下に置かれましたが、大戦後は西プロイセン全域がポーランド領に、東プロイセンはソビエト連邦(ロシア、リトアニア)とポーランドに分割され、それ以降はプロイセンという地域は使われていません。
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フリードリヒ2世とは
とくに軍事にすぐれたカリスマ君主
プロイセン第3代王『フリードリヒ2世』は、近代ドイツ史の中で、3本の指にはいるカリスマ的な君主に数えられています。プロイセンがヨーロッパの大国のひとつとなったのは、彼の功績です。彼の治世に領地は大幅拡大し、その軍事力は目覚ましいものでした。フリードリヒは治世の初期から軍事指揮者として高い評価を得ており、プロイセン軍は他国から恐れられ、賞賛され、そして憧れられときに模倣されました。
やり手の君主と敵国たち
フリードリヒ2世は若い頃、戦争術より音楽や哲学へ関心があったといいますが実際は、父ウィリアムからプロイセンの王位を受け継ぐとすぐにオーストリアを攻撃。シレジア戦争の間に、シレジア(※現在のポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を要求して、彼自身とプロイセンの軍事的賞賛を勝ち取りました。彼は影響力のある軍師でもあり、その分析は彼の広範な戦場経験からうまれ、戦略、戦術、機動性と兵站など、様々な問題を積極的に解決していったのです。
ちなみにシリジアを取られたハプスブルク家のマリア・テレジアは怒り、プロセインの台頭を恐れた他国とが『プロセイン包囲網』を作りました。これは各国3人の女性代表によって作られたことから、『ペチコート作戦』と呼ばれています。
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フリードリヒ大王が推進した『啓蒙思想』
啓蒙思想とはなにか
フリードリヒ2世は、当時ヨーロッパで影響力を持ち始めていた『啓蒙思想』を支持しており、自身を『国家の使用人』とたとえました。啓蒙思想とは簡単にいうと『過去に信じられていた権威や思想、制度、習慣にとらわれず、個人の知性に信頼をおき、合理的に物事を捉えなおそう』という考え方です。個人的または王朝的利益よりも、国家の優位性を主張し、宗教的寛容とあわせて、あたらしい時代の波に広く影響を与えました。
あたらしい思想のもとで、国の体制を近代的に
18世紀の中頃、洗練されたヨーロッパ人の心に「賢明な専制政治」の概念を打ち立てたのは、ロシアの女帝エカチェリーナでもハプスブルク家のヨーゼフ2世でもなく、フリードリヒ2世でした。
即位後ただちにフリードリヒ2世は啓蒙主義的な改革を活発に始め、実際に拷問の廃止、貧民への種籾貸与、宗教寛容令、オペラ劇場の建設、検閲の廃止などを実行しました。国内ではフランス語とドイツ語の2種類の新聞が発刊され、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで廃止同然になっていたアカデミーも復興し、オイラーをはじめ著名な学者たちをベルリンに集め、そこは自由な空気に満ちていたといいます。
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プロセインに対する、フリードリヒ2世の影響
フリードリヒ2世の功績まとめ
18世紀後半、フリードリヒ2世が啓蒙専制君主として統治すると、プロセインは周辺諸国との数度の戦いを経てフランス、オーストリア、ロシアなどと並ぶ大国になりました。
フリードリヒ2世の功績としては、
- 軍事の才を活かして領地を拡大し、
- プロイセンの官僚制度と公務員制度を近代化、
- 寛容から隔離に至るまでの領域全体の宗教政策を推進、
- 3司法制度を改革し、身分の低い者が裁判官や高級官僚になれるようにした
などがあげられます。また彼自身が好きだったこともあり、好きな芸術家や哲学者を支援し、出版や文学の完全な自由を認めました。フリードリヒ2世は、フランス語と芸術を好み、ベルリンの近くにフランスのロココ様式の宮殿 (サンスーシ) を建てたことでも知られています。
現在、プロセイン公国があった場所には
ちなみに第二次世界大戦以前のプロイセンの住民は、東方植民によって移住してきたドイツ人が多数を占めていましたが、終戦前後にソ連が行ったドイツ人追放または国外避難でほとんどのドイツ人はドイツへ移住し、現在の旧プロイセン領地の住民のほとんどは、ポーランド人、ロシア人またはリトアニア人となっているそうです。
大繁栄をむかえて、またヨーロッパにおける大国のひとつとして、先進的なシステムを生み出してきたプロセイン。国としての名前は残っていませんが、彼の治世はプロイセンの重要性と威信に革命的な変化をもたらし、その後のヨーロッパ史に大きな影響を与えました。もしかしたら、名前が現在に残るばかりが全てではないのかもしれません。
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