ルイ16世夫妻がギロチンにかけられたのは有名ですが、フランス革命はいかにして終焉したのでしょうか。フランス革命は、国中が血に染まったことでも知られており、時代は想像以上に地獄絵図だったと考えられています。この記事では、そんなフランス革命の終焉をわかりやすく解説していきたいとおもいます。
- 王党派を次々と処刑、過激さが仇となりロベスピエールは失墜
- 国民の圧倒的な指示を得て、フランス皇帝の座に君臨したのがナポレオン
- 動乱が本当におさまるのは、ナポレオンがロシア遠征に敗れ最終的に没落した1815年
革命派の台頭
(テルミドール9日のクーデター)
王室が倒れたあとに、革命派が国舵取りをはじめたわけですが、もちろんそんなに簡単にうまくいくわけがありません。反抗する者、王党派は次々とギロチンにかけられ多くの死者がでました。殺害の多くは、過激な公安委員会を支配していたロベスピエールからの命令に基づいて行われました。
しかし彼はあまりにも人を殺しすぎるとして、あまりに残虐な彼の仕打ちは新たな憎しみと、革命政府への反抗心を募らせることとなり、ロベスピエール本人もまたギロチンにかけられたのでした。
ロベルピエールの処刑
(テルミドール9日のクーデター)
フランスの人々が革命派に対して「NO」を唱えた、ロベス・ピエール党派が逮捕されたこの事件は『テルミドールの反動』とよばれています。そしてテルミドールの反動を経て、フランス革命はいったん終焉にいたったのでした。
1793年から1794年にかけての恐怖政治が『テルミドール9日のクーデター』によって終了すると、穏健共和政の枠組みでフランス革命の収拾が図られましたが、政権はネオ・ジャコバンと王党派に揺るがされ安定しませんでした。
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新たな英雄の誕生
国民も疲れ果て、そんな混沌の時代に突如あらわれたのが戦術に長けた若い将校、ナポレオン・ボナパルトでした。
理想をかかげて内容がない、まったく非効率な政治を行っていた総督政府。1799年11月9日、総督政府への不満が頂点に達したので、ナポレオンはクーデターをおこないます。ブリュメール18日のクーデターによって総裁政府は崩壊し、国民の圧倒的な支持を得てナポレオンがフランス皇帝の座に君臨したのは、1804年5月でした。
革命の終焉
誰もが知っているように、フランス革命は1789年に始まり10年間続きました。当時フランス市民は自国の制度を破壊し再建を試みたわけですが、彼らがもたらした変化もまた血にまみれたものとして強烈に人々の記憶に刻まれました。
そんなフランス革命は、数え切れないほどの芸術作品に描かれていますが、王妃の寝室に飛び込んでくる暴徒に貴族から略奪を繰り返す市民と、時代は想像以上に地獄絵図だったと考えられています。
(ナポレオンのロシアからの撤退、アドルフ・ノーセンによる絵画)
動乱が本当におさまるのは、ナポレオンがロシア遠征に敗れ最終的に没落した1815年のこと。そのあとにルイ16世の弟がフランス皇帝となり再びブルボン王朝が復活、唯一生き残ったアントワネットの娘マリー・テレーズは皇太子妃としてフランスに返り咲きました。
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まとめ
王党派を次々と処刑、過激さが仇となりロベスピエールは失墜。本人もギロチンにかけられることとなりました。そんな混沌な時代、国民の圧倒的な指示を得て、フランス皇帝の座に君臨したのがナポレオンです。しかし周辺の国を荒らし回ることになったナポレオンも、最後は島流しとなり、政権は王家へと戻っていくことになるのでした。
『正義』に固執すると人は冷静な判断を欠くのでしょうか、正義の名のもとに虐殺が繰り返されたこの革命は一体何をもたらしたのか。ただナポレオンが残した憲法は今も形をかえて残っているわけで、急激な変化には大きな痛手が伴うのかもしれません。
フランス革命の流れについてはこちらの記事 (【フランス革命とは何だったのか】わかりやすい世界史) にまとめております。
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