【ハプスブルク家系図まとめ】巨大な華麗なる一族 650年の歴史

ハプスブルク家

650年以上の長い歴史を持ち、ヨーロッパの名門となったハプスブルク家。その長い歴史は、血みどろの権力争いや政略結婚での領地拡大、近親婚など様々な人間らしいドラマが織り成され紡がれてきました。

この記事では、ハプスブルク繁栄のきっかけを作った始祖ルドルフ1世から、解体されるに至った近代までのハプスブルク家の家系図をまとめました。

650年の家系図

  • 緑色:スペイン ハプスブルク家
  • オレンジ色:オーストリア ハプスブルク家

ハプスブルク家全体の家系図

晩年のハプスブルク家 家系図

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初期の歴史

ハビヒツブルク城 (ハプスブルク家のはじまり)

ハプスブルク家の始祖は、10世紀末ころスイスにあった弱小の豪族でした。そして2、3代目が家名の由来となる『ハビヒツブルク城(大鷹の城)』を建てます。

12世紀にはいるとこの城を本拠とする子孫が「ハプスブルク伯爵」を名乗るにいたりました。

台頭のきっかけ

13世紀、ルドルフ1世は偶然にも20年間空席だった神聖ローマ皇帝に選ばれます。

というのも諸侯たちの足の引っ張りあいで空席となっていた席に7人の諸侯が自分たちに都合のよく、扱いやすい人物を据えようと暗黙の了解で選んだのが『ハプスブルク伯ルドルフ』だったのです。

55歳の彼は、諸侯たちの思惑を外して力を強め、オーストリアなど広範囲を支配することに成功。ハプスブルク家の繁栄の基礎を築きました。

ルドルフ1世と神聖ローマ帝国

「自分たちの都合のように動いてもらおうではないか」とタカをくくっていた7人の諸侯の思惑は見事にはずれ、情勢は思わぬ方向へ。

晩年ルドルフは『さらなるハプスブルク家の反映と拡張』を目標として、神聖ローマ皇帝の座を末裔に継がせようと奮闘しました。

それからは『神聖ローマ皇帝』の座はとってはとられをくりかえし、150年かけ、ハプスブルク家は安定して皇帝の座を世襲していくことになります。

中世の歴史

戦争は他家に任せておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ

この言葉が示すとおり、ハプスブルク家は結婚で領地を広げました。

マクシミリアン1世は自身の結婚でブルゴーニュ、ネーデルラントを、子供の結婚でイベリア半島やナポリ王国、シチリア王国を手に入れ、孫のカールはスペイン王と神聖ローマ皇帝を兼ねました。

子だけでなく、孫の結婚相手までを決め、ちゃっかりと領土拡大を実現させていったのですから、まったく、マクシミリアン1世の知略には恐れ入ります。

中世に活躍したスペイン家

(ラス・メニーナス ディエゴ・ベラスケス画)

スペイン・ハプスブルク家は広大な領土を支配し「日の沈まぬ帝国」を築きました。

1580年から1640年にかけてはポルトガル王も兼ねることで、イベリア半島全域だけでなく、ポルトガルが南米やアフリカ、アジア沿岸に持っていた植民地をも支配していました。

スペイン・ハプスブルク家の崩壊

広大な領土と富を手にし「黄金時代」を築き上げた一方で、度重なる近親婚のために病弱な王が続いたことでも有名です。

近親婚の程度を示す数値 (近親係数)は、初代には0.025だったものが、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していたといいます。

そのためスペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率はたかく、その結果わずか5代で断絶、という悲劇の歴史をもつ王家でもあります。

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晩年のハプスブルク家

帝国解体のきっかけとなったのは第一次世界大戦でした。

今までハプスブルク家が植民地としてきた各地が利権を主張してきたのです。チェコ、スロバキアをはじめ数多の国にその動きがみられ、最終的にはドイツ、オーストリア、ハンガリーだけが残りました。

1911年、ハプスブルク家はオーストリア政府とハンガリー政府に対し、新しい国の形成を認め、国の運営に関する多くの権利を手放すことを決定しました。

ハプスブルク法が可決され

第一次世界大戦後、ハプスブルク家の支配が終わりを迎えたものの、一族は「ハプスブルク」という名を手放しませんでした。

これに対し、オーストリアの国民議会は1919年に『ハプスブルク法』を制定。この法律は、王朝としての特権を放棄して民間人の立場を受け入れない限り、一族をオーストリアから追放するとするものでした。

その後も、ハプスブルク家の象徴的存在として最後の王族とされたオットー・フォン・ハプスブルクは、1961年にオーストリア王冠へのすべての主張を公式に放棄。

これにより、彼はオーストリアで正式に「王室の人物」として見なされた最後の人物となりました。王朝の支配は終焉しましたが、オットーには7人の子供がおり彼らは今も健在です。

ハプスブルク家 家系図 (現在にいたるまで)

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まとめ

650年にわたったハプスブルク家の支配。

帝国は崩壊しましたが、末裔は殺されることなく生き残っており、現在のハプスブルクの家長は、オットーの長男カール氏がつとめています。

ロシア革命で皇帝一家が惨殺されたロマノフ王朝と比べると、プスブルク朝は平和な終わり方だったのかもしれません。彼の長男と6番目の子供は、ブルガリアの2大新聞社とオランダのメディア会社を買収したオーストリアの投資会社の共同設立者だそうで、他の子孫もあちこちで活躍しているそうです。

末裔についてはこちら (【ハプスブルク家の末裔】巨大王朝 | 華麗なる一族の末路)にまとめております。650年続いた驚異の一族、ヨーロッパに君臨した名家その血は確かに受け継がれ、いまもあちこちで色々な軌跡をのこしているのでした。

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