世界史において最も影響力のある王族の一つであり、数世紀にわたってヨーロッパの政治と文化に大きな影響を与えてきたハプスブルク家。しかし、同家の歴史には、暴力や腐敗、独裁的な支配など、多くの問題も存在していました。この記事では、ハプスブルク家が持つ「ちょっと怖い歴史」について紹介していきたいとおもいます。
ハプスブルク家とは
ハプスブルク家は、オーストリアやハンガリーなど中央ヨーロッパの一帯を支配した一族です。同家は中世から近代にかけて、多くの地域を征服し、膨大な領土を支配していました。
ハプスブルク家は結婚政策や外交戦略により、自らの支配力を強め、多くの地域を征服。またカール5世やマリア・テレジアなど、有名な君主を輩出したことでも知られており、その支配は16世紀から20世紀にかけて続きました。しかし彼らの”支配”は、しばしば圧制的で、独裁的であったことで知られています。
無慈悲で残忍な支配
代表的なのは、スペインハプスブルク家の初代当主「カール5世」です。
彼は神聖ローマ帝国の支配者であり、16世紀半ばにはヨーロッパの大部分を支配していました。彼の治世中には、ヨーロッパ各地で戦争や宗教的迫害が行われ、彼自身も非常に残忍であったとされています。カール5世は、反逆者や異端者を処刑することで知られ、スペインでの反乱の鎮圧にも関与していました。
「陽の沈まぬ国」と言われ栄華を誇ったといわれるこの時代、多くの国が彼の元にひれ伏すこととなり、同家の最盛期は、甚大な犠牲者の上に成り立っていたのでした。
栄華の裏にある犠牲
また、カール5世の孫であるフェルディナント2世も、非常に残忍で独裁的な支配者であったことで知られています。彼は、プロテスタントの迫害を行い、三十年戦争を引き起こすことになりました。この戦争は、ヨーロッパ史上最も破壊的な戦争の一つであり、数百万人の人命を奪ったといわれています。
支配下にあった国々で行われた宗教的迫害は、非常に残忍であったことでも知られています。同家は、プロテスタントやユダヤ教徒を迫害し、異端者を処刑することで知られていました。異なる民族や文化を統合するために、強制的な同化政策を推進したのです。
ハプスブルク家は軍事力を背景に、多くの地域を征服していましたが、彼らは、征服地域において、搾取や虐待を行い、支配者としての権威を高めることを優先していました。そのため、多くの国民から反感を買い、不満を高めることになりました。
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不正や腐敗
同家の支配は、多くの腐敗や不正行為によって支えられていたことが知られています。政治的な不正や腐敗にも関与しており、貴族や官僚の地位を利用して、自らの利益を追求し、不正行為を行っていました。これにより、国家の財政状況が悪化し、社会的不満が高まったこともありました。
ハプスブルク家の支配下にあった国々では、人々の自由や権利が制限されることが多かったとされています。同家は、言論や出版の自由を制限し、市民の自由を抑圧していました。
しかし、多くの人々が支配に反発し、反乱や革命が発生する中で、ハプスブルク家の支配は次第に崩壊していきました。現在でも、ハプスブルク家は、オーストリアの象徴的存在として多くの人々に親しまれていますが、その歴史には「多くの腐敗や不正」が含まれていたことが知られています。
一族内の悲劇
ハプスブルク家の歴史には、病的な因果も含まれています。
権力が外に逃げるのを避けるため、一族内では近親婚が繰り返されていました。血縁関係を維持することで、支配力を維持しようとしていたのです。しかしこれにより、遺伝的な問題が発生し、体や精神に異常をきたす子孫が生まれることになりました。
近親婚は、ハプスブルク家にとっては王位継承のための手段であったとされています。血縁関係の近い相手との結婚が好まれ、多くの場合、叔父との結婚や従兄弟との結婚が行われていました。一時期のハプスブルク家の人々は、顔の形が不自然であったり、身体的な異常を持っていたりすることが知られています。
また、近親婚は、ハプスブルク家の衰退にもつながりました。彼らは、継承者に適任な人材が少なくなり、王位継承問題に苦しむことになったのです。
まとめ
長年広大な土地を支配していたハプスブルク家は、結婚政策や外交戦略により、自らの支配力を強め、多くの地域を征服していました。また、芸術や文化の分野においても、多くの名作を生み出し、多様な文化を保持していました。一方で、ハプスブルク家の支配は、暴力や圧制、腐敗、病的な家族関係など、多くの問題を含んでいたことでも知られています。
同家は、暴力や圧制、腐敗、病的なまでの濃い家族関係など、多くの悪影響をもたらしていました。一方で、芸術や文化の分野においては、重要な役割を果たしていたともいわれています。彼らの歴史は、現代の人々にとって、学ぶべき教訓を提供しているのでした。