ヴィクトリア女王からはじまり、ヨーロッパ各国の宮廷が苦しんだ王室病。女王の孫であるアリックスはロマノフ王朝に嫁ぎ、ロマノフ王朝滅亡の原因のひとつにもなった厄介なものでありました。この記事では、そんな恐怖の王室病をヴィクトリア女王時代の家系図と合わせてみていきましょう。
- 大英帝国を築き上げたヴィクトリア女王は、特殊な遺伝子を保持していた
- 男児にだけ症状が現れるもので、遺伝子は密やかに子から孫へと受け継がれた
- 遺伝子は婚姻を通じて他の王室へも広がり、ロマノフ王朝滅亡の原因をつくった
ヴィクトリア女王
国を繁栄に導き大英帝国を築いたことで知られるヴィクトリア女王。彼女の功績といえば、
- 先人たちの浪費によって損なわれた君主世の名声を復活させ、
- 市民としての義務と外交上の義務を受け入れることで
- 帝国への信仰を再燃させた
ことでしょう。彼女は女王の地位と、王国の理念をつくりかえたのです。
ヴィクトリア朝とは、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指し、彼女の名前は、最盛期の大英帝国といまも深く関連づいています。自信に満ちた新しい時代をヨーロッパ全土で象徴する存在となりました。
苦しみの遺伝子
しかし彼女が残した遺産は、政治と高度な文化だけではありませんでした。
ヴィクトリアが1837年に王位についたとき、彼女は何世代にも渡って受け継がれる特殊な遺伝子を王室へもたらしました。彼女は血友病の遺伝子を保有していたのです。血友病とは、血が止まりにくくなる病気のことで、少しの内出血でも身体に深刻なダメージをもたらします。
1819年にヴィクトリア女王が生まれたとき、イギリスの王室には外見上の血友病の徴候はありませんでした。父母ともに血友病の遺伝子を保有しているとは知られておらず、これといった症状もなかったのです。
若い女王は健康な子供時代を過ごした後、ヴィクトリアは1840年に愛するいとこである、サクセコーブルクのアルバートと結婚しました。1853年に8人目の子供と末の息子レオポルドが生まれて初めて、王室に病の兆候が現れました。
王室病の兆候
ヴィクトリア女王の子供であるレオポルドが歩き始めたころ、周囲は彼のことを「怪我をしやすい繊細な子供だ」と思っていました。しかし王子の怪我がつづき、出血の傾向からして 「血友病」 であると女王の主治医ジェームズ・クラーク博士に診断されたのです。
1859年8月2日、ベルギーのレオポルド国王との間ではこんなやり取りがありました。
あなたと同名のレオポルトは、かわいそうに、転んで膝を痛めて寝込んでいますが、それは何ともないようです。
この子はとても悲しんでいます——というのも、この子が王室の行事に本格的に入れないことを本当に恐れているからです。
この不幸な病気… それは往々にして成長したものであり、治療薬も薬も何の役にも立たないのですから。
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症状は男児に現れる?
血友病は医師ジョン・コンラッド・オットにより『男児が生まれた場合、影響が出る可能性のある家族性の出血性障害』であるということがわかっていました。
しかし病名はわかっても、19世紀の血液疾患の複雑さについてはほとんど知られておらず、治療法もありませんでした。医師は「皮膚に少しでも傷がついた場合、出血が止まらなくなり重大な症状に発展することがある」とこの病気について記しています。
当時『血友病患者の血管は単純に壊れやすい』と信じられていて、実際「血友病」という用語も1828年までなかったのです。現在では、血液が固まるのに必要な蛋白が不足している為、血が止まりにくくなる病気ということがわかっています。
女王が抱えた不安
実際に 「血友病」 という言葉が生まれたのは、チューリッヒ大学の学生だったフリードリッヒ・ホフがオットーらが明らかにした現象を表す言葉を考案した1828年のことです。しかし、ヴィクトリア自身が嘆いたように、幼い息子の生活と寿命を著しく制限するこの病気の治療法はありませんでした。
出血は生命に直接かかわる問題であり、傷の治療にあわせて出血の予防に焦点があてられました。氷や湿布、添え木や延々と続くベッドでの安静生活、しかし殆ど効果はなかったといいます。
ヴィクトリア女王は「私が彼に抱いている途絶えることのない恐怖を誰も知らないでしょう」とも書き残しており、王子が患った病について罪悪感をもって生きていたといいます。
(女王一家)
遺伝子は子から孫へ
この時代、血友病患者のほとんどが成人になるまでに亡くなっていました。
特に関節における内出血の長期的な影響によって動けなくなり、その痛みはとてつもないものだったといいます。しかしレオポルドはヴィクトリ女王の注意深い監視のもとで慎重に育てられ、ヨーロッパで最も優れた医師の何人かに看てもらったこともあり、無事に平均寿命の13歳を超えることができました。
1882年にはレオポルドはヘレナ王女と結婚し、長女アリスが生まれます。
しかし血友病の遺伝子はアリスに受け継がれており、孫息子2人は早くに亡くなってしまいました。一方レオポルドはというと、妊娠中のヘレナを残し、1884年転倒がきっかけとなり脳出血で亡くなりました。
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影響を受けたロマノフ王朝
一方でヴィクトリア女王の2女アリスは1862年にルードヴィヒ4世と結婚し、7人の子供達に血友病の遺伝子が引き継がれました。2人の息子はこの病気を患い、1人は2歳で亡くなり2人の娘は保因者でした。有名なのはロマノフ王朝 ニコライ2世のもとに嫁いだアレクサンドラ (アリックス)です。
滅亡のきっかけにも
ロシア王室、とくにニコライ2世の母はこの遺伝子を恐れていましたが、嫌な予感はあたり、生まれた唯一の男児アレクセイは重い血友病をわずらっていました。
そんな幼い息子を心配したアレクサンドラ皇后につけいる形で登場した怪僧ラスプーチンに王政は引っ掻き回され、皇帝皇后は国民や廷臣の不満をかいロシア革命へ。ロマノフ王朝は滅亡の原因のひとつとして、皇太子の王室病があったのです。
なぜ、男性に症状があらわれやすいのか
英国王室でみられたように、血友病は男児がうまれたときに発症するのが一般的でした。現在では、この疾患は伴性X染色体上に位置する遺伝性疾患であることがわかっています。女性に出にくいというのは、この形質は劣性であり、 X染色体を2本もつ女性がこの疾患を発症するには、母親と父親の両方から突然変異を受け継がなければならないからです。
それに対してX染色体を1本しかもたない男児は、疾患が遺伝する可能性が高くなります。ヴィクトリア女王とアルバートのように、父親がこの遺伝子を保有していなくても子供が血友病にかかる確率は50%になるのです。
血がもたらしたもの
ヴィクトリア王家にはこの病気の症状がなかったため、女王が妊娠した時の親か、女王が生前に保有していたX染色体の自然突然変異が、この病気を英国王室に持ち込ませたものとみられています。
この病気は王室の血統を弱体化させ、ヨーロッパの上流階級と、政治的な安定性を危うくしました。この一連の出来事は医学界、特にイギリスの医学界にこの病気の起源とヨーロッパの王室の血統知識を深めることを促し、またヴィクトリア女王の死後、王室の結婚に大きな影響を与えることとなったのでした。
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まとめ
- 大英帝国を築き上げたヴィクトリア女王は、特殊な遺伝子を保持していた
- 男児にだけ症状が現れるもので、遺伝子は密やかに子から孫へと受け継がれた
- 遺伝子は婚姻を通じて他の王室へも広がり、ロマノフ王朝滅亡の原因のひとつにもなった
血友病、別名王室病は、かつてのように世間の注目を集めるものではなくなってきていますが、研究者や医師は治療法の確立に向けて努力を続けています。ハプスブルク家が一族の『高貴な青い血』を重んじるばかりに近親婚を繰り替えし、血が濃くなって弱体化していったように、華々しくみえる王室や君主の影にも、その人物しかわからない苦労があったのかもしれません。
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