ラム酒のラベルで知られているキャプテン・モーガンは、歴史上最も成功した海賊のひとりでした。モーガンは17世紀にスペイン本土とスペインのカリブ海の所有物を略奪し、界隈を恐怖に陥れました。略奪品で財をなした彼はジャマイカの副知事にまで上り詰め、最後は裕福な大農園を手に入れて優雅なリタイアをする、という稀にみる成功者でありました。この記事では、カリブ海に実在したキャプテン・モーガンをご紹介したいとおもいます。
ヘンリー・モーガンの経歴
ヘンリー・モーガンは、17世紀にカリブ海で活躍した出身の海賊。海賊を引退した後は、ジャマイカ島副総督となり、国家の役職につき海賊を取り締まる立場になった人物です。彼が生まれたのはウェールズのモンマスシャー州のルランムニー。1650年に西インド諸島のバルバドス島に渡り、そこで『年季奉仕』として5年間の農園での労働を課せられました。
しかしモーガンは生まれつき体が大きく、20歳前にもかかわらず、奴隷や奉公人を監督する立場になりました。農園主もモーガンのことを気に入り、自由に読書をすることを許した、といいます。そして、1655年に年季奉公の期限が切れたとき、モーガンは海賊の世界に足を踏み入れます。
はじめての遠征、ジャマイカへ
1655年にモーガンはバルバドス島からジャマイカ島に渡り、海賊船員を募集していた海賊船に入りました。その期間のモーガンは謎に包まれており、仲間を集めて海賊稼業で金を貯めていた、という説が有力で、モーガンは仲間に慕われ、海賊船の船長となりました。
その後モーガンはジャマイカ島から西に移動、カンペチェ湾やニカラグア沿岸で海賊行為を働いていたのですが、途中で近隣の産地として繁栄していたグラナダのことを耳にします。モーガンは全長190キロのサン・ホアン川を1週間以上かけて渡り、ニカラグア湖を5日かけて北上した後、月明かりを利用してグラナダを奇襲しました。(すごい執念….. )
モーガンは逃げ遅れたスペイン人を教会の中に押し込め、海賊襲撃に便乗して蜂起した奴隷 (先住民) たちとともに略奪を行いました。カヌーで川を上ってきたので、財宝をたんまり積み込むことはできなかった…といいますが、この事件でモーガンはいっきに有名人となったのです。
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逮捕はされるが、英雄扱い
1669年、ヘンリー・モーガンはベネズエラのマラカイボ湖周辺にある『スペイン人入植地』を略奪しました。そして1671年、彼は36隻の船と2000人の海賊の艦隊を率いてパナマ・シティを相手に、大胆で野心的な遠征を開始。パナマのカリブ海沿岸に上陸したモーガンは、地峡を横断しジャングルを通り抜けて太平洋沿岸の都市を攻撃し占領しました。次々と襲われるスペイン入植地、スペイン人からモーガンは『悪魔』だと恐れられました。
スペイン人を徹底的に攻撃したモーガンですが、イングランドはそのときスペインと平和条約を結んでおりました。内心しめしめと思いつつ、スペインとの関係を維持したいイングランド。国王は激怒したスペイン人をなだめるため、モーガンを体裁的に逮捕しました。そうしてロンドンに送られたモーガンでしたが、待っていたのは、よくやったとたたえる賛美の声でした。1674年、チャールズ2世に『騎士 (ナイト)』の称号をもらい、さらにジャマイカ副総督として赴任することが決まりました。
豆知識:ナイト(Knight)は、主にヨーロッパのキリスト教国家において勲章の授与に伴い王室または教皇から授与される
海賊も私人も、彼に敬意を払うことに
また強力な政治権力をもったモーガン、総督が不在のときには時折彼がその地位に就きました。海賊行為に身を投じていた彼が国家の役職につき、今度は海賊を取り締まる立場になったのですから人生本当にわからないものです。
酒の飲み過ぎか、肺結核か、そんなモーガンは1688年8月25日に亡くなりました。国葬が行われ、モーガンの遺体は公衆が敬意を払えるようキングスハウスに置かれました。また海賊と私人の両方が逮捕を恐れずに敬意を払うことができるように恩赦が宣言されました。
まさに「英雄」的扱い。最終的に彼の遺体はポートロイヤルのパリサドーズ墓地に埋葬され、港に停泊中の船から22発の祝砲が送られました。手厚く葬られたモーガンでしたが、1692年におこった地震のせいで墓は海の中へ消え、墓はいまだに見つかっておりません。
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まとめ
モーガンは海賊のなかでも、数少ない『成功者のひとりで』亡くなった時も相当に裕福な状態でありました。彼は3つの大農園を所有し129人の奴隷をもち、個人的な財産は5,263ポンドだったといいます。
ちなみにモーガンの死後、イギリスの海賊はスペイン領に対する略奪行為、侵略を一切禁止され、カリブの海賊の主役はフランスの海賊に移っていきました。そして1697年にイギリス、スペイン、フランス、オランダの間にライスワイク条約が交わされると、カリブの海賊はなりをひそめていき、海賊が返り咲くのは18世紀になってからでありました。
それにしてもキャプテン・モーガンは海賊行為から名をあげて富を成して、確実な地位にたったのですから、相当に野心家だったのでしょう。『カリブの海賊』ときくと、自由と富と名声を求めて、というイメージがありますが、最終的にたどり着いたのが国家ポジションというのがご愛嬌…. ではありますが、たしかにカリブに存在し、『富と名声』を手にした海賊でありました。
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