在位わずか9日間で廃位に追い込まれ、処刑されることとなったジェーン・グレイ。
そもそも、王位継承権でもいちばん遠い位置にいた彼女がなぜ女王になることができたのでしょうか。そしてこの絵に描かれた彼女は、なぜ首を落とされようとしているのでしょうか。この記事では、野心家たちに翻弄された、悲劇の令嬢ジェーングレイについてふれていきたいとおもいます。
- ヘンリー7世のひ孫であったジェーン、王位継承順位は4位と遠くにあった
- しかし彼女を利用する野心家らによって、むりやり玉座へのせられてしまう
- 最終的にヘンリー8世の娘メアリーが蜂起し、ジェーンは反逆罪で絞首刑に処されることになった
レディジェーン・グレイとは
「9日間の女王」の異名をもつジェーングレイ。数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位しましたが、在位わずか9日間で廃位され、大逆罪で斬首刑に処された悲劇の令嬢です。
ジェーンは1537年秋、イングランドで生まれました。父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。ジェーンの母方の祖母がヘンリー8世の妹であり、プロテスタントだったことから、王位争いに巻き込まれていくこととなります。そもそもの原因は、ヘンリー8世がおこなった宗教改革に起因していました。ここを押さえると、この混沌な「王位継承事情」が見えてきますので、先に宗教改革とは何かをご紹介します。
ヘンリー8世による宗教改革
(ヘンリー8世の肖像画)
元々イングランドはカトリックの国でした。それを変えたのがヘンリー8世です。
世継ぎを切望していた国王は、若く魅力的な愛人のアン・ブーリンを王妃の座へつけようと奔走しました。しかし、カトリックでは離婚が認められていない上に、当時の妃キャサリンは「カトリックの守護神」を自負するスペイン・ハプスブルク家の出身でした。そして、カトリックの総本山であるバチカンも、2人の離婚は認めませんでした。
そこでヘンリー8世は、(自分の離婚を認めようとしない) ヴァチカンの宗教的支配から逃れるために、自らを長とし『イングランド国教会』を設立します。そして無理やり離婚を成立させ、アン・ブーリンとめでたく再婚を果たしたのです。しかし、これが原因となりイングランドは宗教的な混乱期にはいっていくことになりました。
イングランド国教会とは
イングランド国協会は、プロテスタントに分類されることもありますが、
- 他プロテスタント諸派とは異なり、
- ヘンリー8世がカトリックの総本山から独立するために
- カトリック教会の教義自体は否定せずに作られたため、
典礼的にはカトリック教会との共通点が多く『イングランド王が教会の長であること』が最大の特徴です。半ば強引に行われたこの宗教改革ですが、国の混乱が治らないうちにヘンリー8世は亡くなってしまいます。さて、誰が玉座を継ぐことになるのでしょうか。この時点で王位継承の資格を持っている者が4人おりました。
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ヘンリー8世没後の王位継承順位
こちらがヘンリー8世の定めた、王位継承権の順位です。
- ① 3番目の妃との間の子供でありヘンリー8世の唯一の息子、エドワード
- ② 最初の妃キャサリンとの娘、メアリー
- ③ 2番目の妃アン・ブーりンとの娘、エリザベス
- ④ ヘンリー7世のひ孫、ジェーン・グレイ
なぜ王位継承権4位のジェーンが、2位のメアリーをすっ飛ばして女王となったのか。背景には先ほどご紹介した宗教改革があります。
王位継承をめぐる争い
(エドワード6世の肖像画)
ヘンリー8世が亡くなると、王位継承権1位のエドワードが即位しました。
しかしエドワード6世は、病気によりわずか6年ほどで亡くなってしまいます。さて、次は誰が王座につくべきなのか、継承順位をみればメアリーがつくのが筋ですが、ここでジェーン・グレイの血統に目をつけた野心家がいました。その人物こそ、巨大な陰謀論を企てたジョン・ダドリーです。
彼は息子ギルフォードをジェーンと結婚させ、「王位継承者」の義理父になり牽制を振おうと考えたのです。ジョン・ダドリーは、メアリーとエリザベスの王位継承権を否定して、ジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世を説得していました。
野心家におされて
(ジェーンに王冠を受け入れるよう懇願するジョン・ダドリーと実父のヘンリー ジョバンニ画)
そして、ジョン・ダドリーは「(自分が後見人をつとめる)ジェーン・グレイこそが時期女王にふさわしい血統だ」として、ジェーンを無理やり女王として即位させてしまったのです。そもそも彼女は王座につくつもりはありませんでした。エドワード6世が亡くなると、ジョン・ダドリーに半ば無理やり即位宣言をさせられたジェーンは、ただ驚くばかりだったといいます。
しかしことは簡単にいきませんでした。家系図で見るとわかりやすいのですが、ジェーングレイは”ヘンリー7世のひ孫”です。エドワード6世が亡くなったとはいえ、王位にはもっと近い人物がいました。それが前々王ヘンリー8世の実娘、メアリーとエリザベスです。
(テューダー朝の家系図 ジョン・ダドリーとレディ・ジェーン)
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メアリーの蜂起
さて廷臣であるジョン・ダドリーの画策によりジェーン・グレイは女王になったわけですが、それを快く思わなかったのが、エドワードの跡を継ぐはずだったメアリーです。
ヘンリー8世は、カトリック教会と断絶した後「当時国内にあったカトリックの修道院を破壊しては財産を没収しては莫大な富を得る」といった暴挙にでており、国内に敵も多くありました。
カトリックの逆襲
先に王となったエドワード6世、ジェーン・グレイとその夫もプロテスタントでした。しかしメアリーは母に習って敬虔なカトリック教徒でした。即位した暁にはイングランドをカトリック国に戻すつもりだったのです。そんなメアリーに、
- ジョン・ダドリーの政敵や、
- 国内の抑圧されたカトリック勢力、国民の半数が加担します。
メアリーは放棄した民衆とともにロンドンへと進軍します。そして9日後には、ジョン・ダドリーらを打ち負かし、改めて『新女王メアリー』を宣言したのでした。これは同時に、レディ・ジェーンの失脚を意味しました。
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反逆罪に問われたジェーン
イングランド女王となったメアリーは国内をカトリックに復帰させました。憎しみを晴らさんとばかりにプロテスタントを迫害、女性や子供を含む約300人近くが処刑され、それは「ブラッディメアリー(血塗れ女王)」の異名をとるほどでした。しかしそんなメアリーでも、あきらかに王位継承権を周りに利用されただけのジェーンを処刑するには躊躇いがありました。
メアリーは「もしカトリック信仰に改宗するのであれば、命を助けましょう」と申し出ますが、ジェーン夫妻は断りました。そのため、ためらいながらもメアリーは枢密院の勧告を受け入れ、ジェーンと夫ギルフォードの処刑を命じたのです。
レディジェーンの最後
ジョン・ダドリーは反逆罪で処刑され、ジェーンとギルフォードは別々に幽閉されました。夫ギルフォードは処刑前日に妻ジェーンとの面会を希望しましたが、「彼女は苦痛が増すばかりですから」と面会を拒否したといいます。
ジェーングレイといえば、こちらの絵画が有名ですね。
これはポール・ドラローシュが描いた『レディ・ジェーン・グレイの処刑』です。中央に描かれているのは、サテンの純白のドレスを身にまとったジェーン・グレイ。布で目隠しをされ、司祭に導かれて、小さな斬首台に手を伸ばしている姿が綿密に描かれています。ジェーンは最後まで夫とともにプロテスタントを貫き、結婚指輪をしたまま処刑されたといわれています。
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まとめ
ヘンリー8世の没後、王位継承順位は4位と玉座からは遠くにいたジェーングレイ。野心家らによって、半ばむりやり玉座へのせられるも、ヘンリー8世の実娘メアリーにより廃位。最後は奇しくも、反逆罪で死刑に処されることとなったのでした。
イングランドは女系の継承権を認めていましたので、元々ジェーンも王位継承権は持っていたのです。ただ継承順位についてはヘンリー8世の実子であるメアリーやエリザベスよりは低いものでした。2人の継承権を剥奪するのを民衆がよしとしなかったのも、自然の道理だったのでしょうか。
野心家たちに出自を利用され、振り回され続けた人生。もしかしたら「わたしは改宗せず、死刑を受け入れます 」という返答が、彼女が残した最初で最後の意思だったのかもしれません。
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