1963年11月23日、当時アメリカの大統領であったジョン・F・ケネディが暗殺されました。一国の大統領がパレードの最中に頭を撃ち抜かれるというショッキングな事件は、アメリカだけでなく世界を震撼させました。
あれから50年近くが経ち、容疑者とおぼしき男も逮捕されたわけですが、いまも事件にまつわる様々な謎が残されています。この記事では、ケネディ大統領暗殺にまつわる謎、そして容疑をかけられたオズワルドの射殺事件についてみていきたいとおもいます。
- JFK暗殺の犯人として逮捕されたのは、オズワルド
- しかしオズワルドも、その後ジャック・ルピーにより殺害
- そのジャックも何者かに殺害され、大規模組織の関与が疑われている
ケネディ大統領 暗殺事件
1963年11月21日、ケネディ大統領夫妻夫妻はアメリカ中部上空を、大統領専用機で一路テキサス州へとむかいました。一部にはケネディ大統領に反するデモを心配する声もありましたが、現地では世界中で人気を博していた妻ジャクリーヌとともに盛大に迎え入れられました。
翌日の歓迎パレードではFBIのグリツァーが運転手をつとめ、大統領夫妻は車の後部座席に、そしてコナリー知事夫妻が前の座席へと座りました。
舞台となったのは、ダラス市街のパレード
大統領が乗った車は行列の3番目につき、1番目と2番目の車にはダラス警察とシークレットサービスがつき、報道関係や警備、政府関係者の車が後へと続きました。そしてパレードは、歓迎に沸く市民たちのあいだをぬってダラス市内をゆっくりと進んでいったのでした。
心配されたデモもおこらず、ダラスの人々はあたたかく友好的に大統領夫人らを歓迎しました。
エルム街を抜けると、約5分後には昼食会場のトレードセンタービルへと着くようになっていました。ケネディ夫妻らは、そこで昼食をとって空港へ引き返し大統領専用機に乗ってワシントンへ出発する予定だったのです。
悲痛をあげたファーストレディ
パレード車は12時30分頃、テキサス州学校図書館協会に向かう道を左折。この角は鋭角であり、左折するときは車のスピードを落とす必要があったのですが、事件がおこったのはその直後でありました。突然、数発の銃声がとどろいたのです。
コナリー知事夫人はケネディ大統領が、両手で首をつかむようにして座席に崩れ落ちるのをみたといいます。つぎの瞬間コナリー知事も撃たれ、ケネディ夫人が悲痛をあげました。
夫が撃たれた、あの人の脳がこんなに出ている!!
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犯人の逮捕
暗殺犯はオズワルド?
犯人として逮捕されたのは、リー・ハーヴェイ・オズワルド。彼は事件後、裏口からビルをでてバスにのりノースバークレー街の自宅へと戻りますが、その後家を後にして外を出歩いていたところダラス警察に取り押さえられました。
1939年、ニューオーリンズで生まれたオズワルド。学生時代は無断欠席の常習犯で、精神科医には「情緒不安定」と診断を受けたこともありました。17歳のときに学校を中退して海兵隊へ入隊しますが、1959年には除隊してソ連にわたり現地の女性と結婚しました。
1962年オズワルドは妻子をつれてアメリカへ帰国。その数ヶ月後ソビエトへ渡ろうと試みますが、結局ビザを撮ることができずダラスへもどりテキサス州学校図書館協会にて職を得たのでした。
仕立て上げられた容疑者
1963年3月には偽名をつかい、シカゴの通販会社からライフル銃を、そしてロサンゼルスの会社から38口径のピストルを買い入れていました。ケネディ暗殺事件当時、オズワルドがソ連に亡命歴のあるマルクス主義者(※)だという事実が繰り返しマスコミによって報道されました。
ソ連亡命歴のあるマルクス主義者、さらにカストロ首相を指示していたとあって、オズワルドはあっというまに、疑う余地なく大統領暗殺犯人へと仕立て上げられてしまいました。
しかし実は逮捕当日の硝煙反応を調べたところ、オズワルドが過去24時間以内に銃をうった形跡のないことがわかっていたのです。しかしこの事実は、連邦政府とダラス警察によって「超極秘事項」として隠蔽されてしまったのでした。
謎の死を遂げた容疑者オズワルド
(襲撃前のオズワルド)
そんな中、まさかの自体がおこります。
容疑者であるオズワルドが別の男に銃殺されてしまったのです。ケネディ暗殺の二日後のことでした。犯人は用心棒上がりのクラブ経営者であるジャック・ルビー。
彼は1963年11月24日、ダラス拘置所の地下室にもぐりこみ、ダラス警察本部から連れ出されようとしているオズワルドをリヴォルヴァー銃で撃ち殺しました。容疑者であったオズワルドをとらえようとしていたカメラマンたちは、予想だにしない光景を目撃することになったのでした。
ジャック・ルビーも怪死を遂げて
その場で逮捕されたルビーは1964年3月14日殺人罪で死刑を宣告されます。
ダラス拘置所に収容され、再審を待っている間にルビーはひどい咳や吐き気に悩まされたルビー。死の前年拘置所から病院へうつされたときには、ガンの末期状態であることが判明していました。
ガンの進行を遅らせようと医師団は力を尽くしますが、1967年1月2日夜明けに悪化、翌日9時にはひきつけを起こし始め1時間半後に息を引き取りました。
一度は「一審の判決は誤審である」として裁判のやり直しが決まっていたのですが、それを待たずして亡くなったのは1967年1月3日のことでした。
ルビーの急死に第三者の影
ルビーはダラス拘置所に収容され、再審を待っている間にひどい咳や吐き気に悩まされていました。死の前年拘置所から病院へうつされたときには、ガンの末期状態であることが判明。ガンの進行を遅らせようと医師団は力を尽くしますが、1967年1月2日夜明けに悪化、翌日9時にはひきつけを起こし始め1時間半後に息を引き取りました。
しかし不可解なのは解剖の結果、医師らがガンの発生箇所と信じていた膵臓にまったく異常がなかったことです。拘置所に収容されている間にがん細胞を移植されたのではないかといった飛躍した説まで囁かれるようになりました。
というのも、ルビーは暗黒街と関係のあるナイトクラブのオーナーでした。経営難で多額の借金に延滞税がありましたが、ケネディ暗殺事件の前あたりから急に景気がよくなり「やっと借金地獄とおさらばだ」と吹聴していたといいます。
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ケネディ大統領暗殺にまつわる陰謀説
ケネディ大統領が暗殺されて2日後、容疑者オズワルドがジャック・ルビーにより殺され、そのジャック・ルビーもまた怪死を遂げることとなったのです。事件後、真相究明のために結成されたウォーレン委員会は、これはオズワルドによる単独犯行であると結論づけましたが、1979年、米国下院の特別調査委員会が衝撃的な新説を発表しました。
これはオズワルドの単独犯行ではなく、背後に何らかの陰謀組織が関与していたというのです。それは、「オズワルド以外の第三者」が同じくケネディ大統領に発砲していたというものでした。
大規模組織の関与
そうして、こんな仮説が立つようになったのです。
影にある何らかの組織がオズワルドに大統領殺害を命じ、ジャック・ルビーにオズワルドの口を封じさせ、第三の男にルビーを殺すように命じた
「オズワルドはただの操り人形に過ぎなかったのではないか」世間でいわれている陰謀説はここからきています。実際に、ジャック・ルビーは死の直前に受けたインタビューでこう言い残しています。
世間は実際に何がおこったのか永久に知ることはないだろう。
この事件で利益をえた人物、私をこの場に追い詰めた人物が真実を公表することなどないのだから
ケネディ大統領はなぜ狙われたのか
1963年当時、ケネディ大統領は多くの敵をかかえていました。
キューバ問題では、ソ連との核戦争の危機を招き共産党主義社会から恨みをかい、また暗殺の1ヶ月前には「ベトナムからの米軍撤退を命じる」などして軍部の反感を招いていたのです。また、それだけでなく、黒人に平等の権利を与える公民権法を制定しようとして、白人主義者らの強い反感をもかっていました。
CIA手動のキューバ侵攻が失敗に終わるとCIA絶滅をはかり、またマフィアに対しては弟のロバート・ケネディ司法長官をもちいて徹底摘発を命じるなど、かなり危ない橋をいくつも渡っていました。
過去のアメリカの大統領においても、1965年のリンカーン、1881年のガーフィールド大統領、1901年のマッキンレー大統領とすでに3人の大統領が殺されているといった実例もありました。つまるところ、ケネディ大統領は、いつ命を狙われてもおかしくない状況にあったのです。
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さいごに
ケネディの死後、1ヶ月にしてアメリカの対ベトナム政策は180度転換しました。
新たな大統領となったジョンソンは、必要ならば戦闘部隊の投入を辞さないことを宣言。その後アメリカは、第二次世界大戦にも匹敵する大規模な戦争へと進んでいくのでした。
ケネディ政権末期には軍事顧問の数は1万5,000人でしたが、65年の本格介入時には16万、67年には54万人近くにも膨れ上がっており、また倒産寸前だったアメリカ企業のいくつもがこの戦争を機に再生されることになったのでした。
そして気がつくとあのジャック・ルビーに関連する情報を持った人々、暗殺の証人をはじめ近しかった人たちが自殺や事故、他殺などによって16人も亡くなっていたとか…. 。半世紀以上たった今もさまざまに取りただされるケネディ大統領暗殺事件。明かされていない、歴史の闇に葬られた何かがこの事件にはあるのかもしれません。
ちなみにあまり知られていませんが、ケネディ大統領の愛人であったマリリン・モンローもまた自宅の寝室で怪死を遂げていたのでした (参考:【マリリンモンローの怪死事件】秘されたケネディ大統領との関係)
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