1961年アメリカの一時代の象徴となったのが、かの大統領ジョン・F・ケネディの妻ジャクリーン夫人です。ケネディ大統領暗殺事件の後、彼女が結婚相手に選んだのが海運王と呼ばれた大富豪、オナシスです。この記事では、アメリカ中が怒りに沸いたジャクリーンの再婚について追っていきたいとおもいます。
- ケネディ大統領の暗殺により、一躍悲劇のヒロインとなったジャクリーン夫人
- まもなくして20歳以上歳が離れたオナシスと再婚して、アメリカ中から批難を浴びる
- オナシスが亡くなる頃には、とんでもない遺言書が作り上げられていた
トップレディから一転
そしてきたる1963年11月22日、アメリカ南部のダラスの街で、ケネディ大統領は銃弾を頭にうけまもなく帰らぬ人となりました。31歳の若さで世界のトップレディとなり一躍世界を虜にしたジャクリーンは、34歳の若さで世界をゆるがすほどの悲劇のヒロインとなったのでした。
ジャクリーンは、夫の血を浴びたピンクのスーツのまま報道陣の前に現れたことでも国民に大きな印象を残しました。この理由として彼女は、「どれだけ酷いことをしたのか、犯人に思い知らせたかった」と言葉をのこしています。アメリカ国民は勇敢な大統領の元妻として、彼女に「夫の死をいたみながら意地人を立派に育てる」模範的な妻であることを期待しました。
オナシスとの馴れ初め
ジャクリーンには、悲しみに耐える未亡人として世界の同情を集めました。しかし彼女は、1968年にギリシャの海運王であり、大富豪のオナシスと再婚をはたしたものですから、アメリカ中は裏切られたとばかりに怒りまくったそうです。
「アメリカは聖女を失った」と偉大な夫の想い出を捨ててなんたることか、金目当ての結婚をした裏切り者扱いとなってしまったのです。しかしザ・クラウンに垣間みれたように、実際のところお伽話とさえいわれたケネディ氏との結婚生活は、そんなに幸福なものではありませんでした。ケネディ氏は元来女癖が悪く、ジャクリーンは夫が女性と消えていきひとりで残されるといった悲哀を何度も味わっていたのです。
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結婚条件
夫ケネディの死後、ジャクリーンとオナシスの仲は急に深まり、オナシスはパリやニューヨークで高価な宝石を買っては彼女にプレゼントを送ったそうです。オナシスにしてみれば、「元アメリカ大統領夫人」との結婚はある意味で、ステータスだったのかもしれません。
義理の子供たちをかわいがり、最初の数ヶ月は20歳以上歳が違うとはいえ順調だったそうです。すべてオナシスの思い通りかと思いきや、ことはジャクリーンのペースで勧められていました。それは結婚契約書の「ふたりは寝室を別にすること」にみえています。
さらに「万が一離婚した場合は、結婚していた年数に対してジャクリーンは1年に1,000万ドル受け取ること、オナシスの死後は1億ドルを受け取ること」など際どい誓約が事細かに書かれていたのです。
巨額な遺産の行方
ジャクリーンの金遣いの荒さはお墨付きでした。
ついに愛も尽きたのか、晩年オナシスは遺言書をしっかりと書きかえていました。遺言ではオナシスの実娘クリスチナに10億ドルの大半がわたり、ジャクリーンには1,000万ドルしか与えられないことになっていたのです。
もちろんジャクリーンは裁判で訴えを起こし揉めごとは1年半もつづきました。結果的に「ジャクリーンはオナシス家との関係をいっさい絶つ」という条件で、2,000万ドルを受け取ることで合意したのでした。
聖女か、悪女か
オナシスと前妻との間にうまれた子供クリスチナにしてみれば、このぐらいの金額で大嫌いなジャクリーンとの関係が絶てるのならば、むしろ安いものだったのかもしれません。ジャクリーンは、ファーストレディ時代にエリザベス女王に失礼な態度をとったことでも知られています。
才色兼備、けれども貪欲で傲慢な女性だからこそ、ケネディ大統領夫人、つまりファーストレディとして名を馳せることができたのか。それとも、トップレディの地位を手に入れたから変わってしまったのでしょうか。
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まとめ
ケネディ大統領の暗殺により、一躍悲劇のヒロインとなったジャクリーン夫人。まもなくして20歳以上歳が離れたオナシスと再婚して、アメリカ中から批難を浴びますが、実際にオナシスが亡くなる頃には、とんでもない遺言書を作り上げてしまっていたのでした。
実際それはオナシスの家族によって阻止されたわけですが、世界中が同情し悲劇のヒロインとみえた彼女も、晩年は「お金」ありきの生活を意地でも堪能しようとしたのでした。しかしながらケネディ大統領の浮気に心を痛めていたジャクリーンも確かにいたわけで、愛なき結婚生活を重ねるうちに大切なものが、少しずつ何かがずれていってしまったのかもしれません。
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