「零戦に250キロ爆弾を搭載して体当たり攻撃を行うほかない」1944年10月19日、悪名高き「特攻」作戦は、日本海軍第一航空艦隊司令長官であった大西瀧治郎中将の一言から始まったと言われています。
零戦以外にも、日本では特攻兵器「桜花 (おうかとよばれる、グライダー式人間爆弾)」や、「回天 (かいてんと呼ばれる、人間魚雷)」の開発と訓練が進められていました。この記事では、戦時中の日本で実際に実行された狂気の作戦『特攻』についてふれていきたいとおもいます。
どうして『特攻』がうまれたのか
太平洋戦争開戦当初、破竹の快進撃を続けていた日本軍。しかしミッドウェー海戦の大敗以降は劣勢に転じ、大西が指揮を執るフィリピンのレイテ島も陥落の寸前にありました。レイテ島が奪われれば、日本本土と南方雨占領地域を結ぶ補給路が絶たれ、敗戦へまっしぐら。状況を打破するには、これまでにない神がかり的な作戦が必要とされたのです。
同年10月25日、レイテ島を24名の若者たちが飛び立ちました。「新風特別特攻隊 (しんぷうとくうべつとっこうたい)、あの神風特攻隊の初めての出撃です。特攻といえば沖縄戦の悲劇がよく知られていますが、始まりはレイテ島であったといわれています。この攻撃によってアメリカ軍空母一隻が撃沈、ほか5隻が破損。特攻を目の当たりにしたアメリカ軍では敵意を喪失する兵士が続出し、恐怖からノイローゼに陥る者もいたといいます。以降、特攻は日本軍の中心的戦略となっていきました。
特攻作戦の効果とはいかに
しかし特攻は、最終的にはどれほどの成果をあげたのでしょうか。
日本海軍は終戦までに2149機の特攻機を突入しましたが、米軍の発表によると、沈没は48隻、損傷310隻と戦争全体でみれば微々たるものだったといいます。その命中率は18.6%と、客観的にみれば惨憺たるものでありました。特攻をより悲劇的にするのは、太平洋戦争初戦の魚雷命中率40%という数字です。神がかり的な、命をかけての最終手段の戦果は、数字だけをみれば、通常攻撃よりもはるかに低いものだったのです。
命中率の劣る特攻を終戦まで続け、日本軍は「狂気の軍隊」といったレッテルを貼られることとなったのも無理はないでしょう。しかしそんな特攻がなぜ中心的戦略として続けられていたのでしょうか。
なぜ効果が薄い作戦を続けたのか
特攻が発案された当初、意外にも軍の上層部は反対していたといいます。大西から特攻作戦の発案をうけた及川古志郎軍令部総長は「了解はするが、しかし命令はしてくれるな」と語っています。
大西自身も、特攻が大日本帝国を勝利に導くとは考えていなかったようです。彼はある参謀長に「特攻でフィリピンを防衛できる見込みは殆どない。特攻の報告を耳にした天皇陛下は必ず “戦争はやめろ” と仰せられる。そうなれば、皆従わざるを得ない (要約)」と語ったとか。大西にとっても、特攻は戦争の傷を最小限にする苦肉の策だったのでした。
しかし特攻の事実は天皇の耳に入りますが、大西が期待した「戦争をやめろ」といった言葉はなかったといわれています。
そもそも昭和天皇は立憲君主という立場をとっており、政治や軍事に介入する言動はどのような形であっても行うことはできませんでした。結局大西は、特攻の継続を決断、こういった背景から「特攻の父」と呼ばれる大西ですが、彼の発案以前から特攻兵器「桜花 (おうかとよばれる、グライダー式人間爆弾)」や、「回天 (かいてんと呼ばれる、人間魚雷)」の開発と訓練がはじまっており、特攻を推進する軍人はほかにも存在していたといいます。
もちろん本当のところはわかりませんが、大西はたまたま最初の命令を下しただけであって、特攻は時代と暴走した軍部という大きな流れによって引き起こされた悲劇であったのかもしれません。
スポンサーリンク
零戦以外にもあった、恐ろしい特攻兵器
特攻がより活発になると、さまざまな特攻兵器が開発されていくようになりました。
生還を前提としない特攻兵器は、その構造自体が狂気じみていたといいます。なかでも最悪と称されるのが「キ115」、通称「剣 (つるぎ)」とよばれるものです。陸軍が開発したこの航空機は、胴体がブリキであり、尾翼は木でつくられていました。操縦性に限っては劣悪極まりなく、テストパイロットは「これを本当に実戦で使う気か」と激怒したといいます。さらに離陸すると車輪は分離するという驚くべき仕組み、まさに乗ったら最後、まるで空飛ぶ棺桶だったのです。
彼らの言い分では、剣は資材不足に対応した爆撃機であり、着陸の際は海上などに胴体着陸するのみ。しかしブリキと木で構成された機体が胴体着陸などを行えば、文字通り海の藻屑となってしまうことは目に見えていました。剣は約100機が生産されましたが、実戦投入される前に終戦を迎えたのでした。
人間魚雷、回天 (かいてん)
またその名前だけでも恐ろしい、人間魚雷「回天」は、特攻兵器の中でも特に有名なものです。
魚雷に人間が乗り込み、操縦することで命中率の向上をめざしたこの兵器は1,550キロもの爆薬を搭載し、一撃で戦艦をも撃沈できる破壊力を有していたといいます。しかし、アメリカ軍のすぐれた対潜兵器の前に成功率はとても低く、終戦までには実際に約150隻が出撃しましたが、撃沈は3隻。空母などの大型の艦艇に被害を与えることはありませんでした。『回天』は非常に操縦が難しく目標に辿り着けないことも多かったといいます。脱出装置もなく、一度出撃してしまえば、攻撃の成否にかかわらず乗員の命はありませんでした。
航空機に関してはさらに劣悪な「夕号特殊特攻突撃機」があります。これもなんとすべてが木製、最高時速はたった180キロという耳を疑うような機体でありました。幸いにもといいますか、実戦突入前に戦争は終結しています。
特攻機乗組員たちの運命
こうした常軌を逸した兵器に搭乗し、犠牲になった兵士は陸海軍合計で推定約6,000人。その大半は予備学生や、少年航空兵であり、兵器の操縦を覚えたばかりの20歳前後の若者でありました。公的には志願したことになっていますが実情はちがい、上官の圧力で強制されたり、勝手に特攻隊に組み入れられたりするケースが多かったといいます。
またあの人間魚雷『回天』の隊員募集文書には、「その性質上、とくに危険を伴う」とだけ記され、特攻兵器と知らずに志願した若者もいたといいます。そんな彼らの多くが最終的な意思に関わらず任務にあたり、太平洋の空と海に散っていったのでした。
スポンサーリンク
あとがきにかえて
もう帰ることはできない、そのとき彼らは何を思ったのでしょうか。
一部の特攻隊員は白昼から酒に酔い抜刀して暴れる者もいたと言われています。しかし憲兵は参謀らより、「特攻隊員は明日なき命なのだから好きなことをさせよ」との指示を受けており、見て見ぬふりをしていたとか….。厳正だった出撃の際にも軍律の乱れが及び、中には真偽不明ではあるが無線で「海軍のバカヤロー」叫びながら出撃した隊員や、出撃後に司令官室に向けて突入するふりをした隊員もいたといいます。しかしそれは、明日をも知れない命だから、どうしても足が自然と外に向いてしまうのだと見てみぬふりをされていた所もあるそうです。
しかし、乗員となった彼らが残した遺書には、家族や恋人への感謝やその幸せを願う言葉が数多く見られます。一概に決めつけることはもちろんできないのですが、彼らにとって空にを守ることとは大切な人々を守ることだったのではないでしょうか。南西諸島に散った陸軍・新井一夫軍曹の辞世の句には、その一縷の思いがこめられているのでありました。
“君が為花と散る身の悦びを 胸に抱いて我は往くなり”
関連記事
参考文献
- https://en.wikipedia.org/wiki/Kaiten
- https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_Special_Attack_Units
- https://en.wikipedia.org/wiki/Nakajima_Ki-115
- Kamikaze: Japanese Special Attack Weapons 1944-45 (New Vanguard)
※ 記事は多分に個人の見解を含んでおりますので、読み物としてお楽しみください。