スペイン王国史上、最も痛ましい君主として知られるカルロス2世。いうなれば、王朝支配のために、肉体的にも精神的にも操られた君主でありました。この記事では、カルロス2世に焦点をあて、スペインハプスブルク家終焉前後のスペイン史をおっていきたいとおもいます。
- スペインハプスブルク最後の君主となったカルロス2世
- 適切に統治ができないため、周りの者が摂関政治を行なっていた
- 子はできず、同家の支配者はハプスブルクからブルボン王家へと移っていった
カルロス2世
陽の沈まぬ国と呼ばれ、世界中の広大な領地を支配したスペインハプスブルク家でしたが、終焉はわずか5代と早いものでした。最後の国王となったのが、4代目フェリペ4世が老帝となってから授かった奇跡の子カルロス2世です。
彼スペイン王国史上、もっとも痛ましい君主として後に知られることとなります。ハプスブルク家の婚姻政策による近親婚のせいか、生殖能力はなく明らかに知的障害があったといわれており、いうなれば、王朝支配のために、肉体的にも精神的にも操られた君主でありました。
呪われた国王
バチカンからマドリードの宮廷へきた教皇大使は、カルロス2世について以下のように述べました。
顔は醜い、首も顔も長く、あごがしゃくれている。下顎前突は典型的なハプスブルク家の遺伝だ。瞳はトルコブルーで目はさほど大きくなく、皮膚は薄くてやわらかい (…) 歩く時以外曲がっている身体は、精神と同じく弱々しい。時折聡明で記憶力に優れ、才気のある様子も見せるが今は違う。(…)要求されるがままに行動し、自らの意思に欠けている。
この言葉通り、カルロス2世は生涯にわたって他人に操られ続けたのでした。1661年11月6日、フェリペ4世とマリアナ・デ・アウストリアの息子としてマドリードで生まれましたが、この外見は魔法をかけられたせいだとされ、「呪われた王」と囁かれるようになります。
摂政政治
3歳の時に父フェリペ4世が他界し即位したため、暫くは、母マリアナが摂政を務めました。貴族、聖職者、軍人や顧問会議のメンバーからなる統治評論議会の助言をうけ、寵臣フアン・エベラルド・ニタルドに支えられての摂政政治でありました。まもなくカルロス2世は、精神的、身体的な発達障害の兆候を示すようになりました。
5歳になってもうまく歩けず、9歳になっても読み書きができませんでした。そのため、政治の実権を庶子に狙われることもありました。時には神父ニタルドがおこなった対外政策がひどいとして、フェリペ4世の庶子フアン・ホセが蜂起。謀反は成功し、フアンが実権を握ったものの、まもなくミラシエラ候フェルナンドにとって代わられたのでした。
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危ぶまれる王国の行方
(参考:【ハプスブルク家の家系図まとめ】巨大な華麗なる一族 650年の歴史)
14歳になるとカルロス2世は正式に即位して、バレンスエラを罷免します。
そして異母兄フアン・ホセ・デ・アウストリアを再び折衝に迎え、母マリアナをトレドに隠棲させました。翌年カルロス2世はフランス国王ルイ14世の姪、マリア・ルイサと結婚します。しかし子供がないまま彼女は亡くなってしまいました。世継ぎがいなかった同家の行先が懸念され、カルロス2世は翌年プファルツ選帝侯フィリップの娘、マリアナと再婚を果たしました。
フアン・ホセの死後、その権力はオロペサ伯らの寵臣たちに引き継がれました。しかし破壊的な財政状況と政治的、また社会的危機によって平価切り下げが相次ぎます。大国として華々しい意向を放ったスペインでしたが、経済は完全に崩壊することとなったのでした。
フランス戦争の終焉
この危機的状況に追い討ちをかけたのが、1684年と1690年の2度にわたる対フランス戦争でありました。戦いは続き、1697年にはフランス軍によってバルセロナが占領されました。同年、ライスワイク条約が締結されてようやく戦争が終わり、ルイ14世はカタルーニャのフランス領、フランドル、ルクセンブルクをスペインへ割譲したのでした。
カルロス2世の治世の終わり頃は、各国からの政治的圧力が強まります。また、宮廷内でも王位継承を巡る陰謀が溢れました。継承者として有力視されていたのはバイエルン選帝侯の息子である大公ホセ・フェルディナンド・デ・ハプスブルクですが、彼は1699年に亡くなってしまいます。
後継者問題
ホセにかわって候補にあがったのが、
- 神聖ローマ皇帝レオポルト1世の息子で、フェリペ3世の曽孫カール大公と、
- ルイ14世の孫で、フェリペ4世の曽孫アンジュー公のフィリップ
の2人でした。母帝はカール大公を推しましたが、カルロス2世自身は、フランスの支援がなければ領土を維持できないと考えフィリップを支持。その旨を遺言へと残し、39歳になる数日前にマドリードにて亡くなったのでした。
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まとめ
スペインハプスブルク最後の君主となったカルロス2世。適切に統治ができないため、周りの者が摂関政治を行なっていました。しかし二人の妻との間に子はできず、後継者となったのはフランスのアンジュー公フィリップ。
カルロス2世は能力に限界があるといわれながらも、周りからの圧力に屈せず、遺言でアンジュー公フィリップを王位継承者へと指名したといわれています。これにて『陽の沈まない国』とまでいわれたスペインの黄金時代は幕を閉じ、支配者はハプスブルク家からブルボン王家へと移っていったのでした。
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